エントツ山 四国百名山完登記念特集

ラスト四国百名山を飾る  「野根山街道」全ルート完全踏破 (平成23年4月23日〜24日)


実録  野根山街道  全ルート歩き

奈半利〜米ヶ岡〜宿屋杉〜岩佐関所 (テント泊)〜野根山〜一の門〜四郎ヶ野峠〜一本松〜左手ヶ坂〜野根

プロローグ

10年程前に山歩きに突然目覚めた時、山と渓谷社の「四国百名山」の本を購入した。その時には全ての
山など登る気も無く、その中にある美しい山の写真を見て山登りというものに対して俄然ファイトを燃や
したものだった。


しかしこの本、装丁に難があり長く読んでいるとページがバラバラになってくる。でも四国の山のバイブル
とはバラバラになっても価値はあるものだ。



   山と渓谷社 「四国百名山」              高知新聞社「四国百山」   百の山選定に若干の違いあり

好きな山を歩いていると知らぬ間に四国百名山の残りが次第に減って行った。 

と言っても残っている山は気が遠くなるくらい遠い山だったり島だったり、あまり興味の無いものだったり
・・・   そういうタイプの山が残ってくるのである時からは意識的に登る山を決めて歩いていたのだ。


今年になって沖ノ島「妹背山」へ行き、いよいよ最後に「野根山街道」が残された。

何故、四国百名山が野根山ではなく野根山街道なのか? 選者の意図は奈良時代、養老2年(西暦718年)
に奈良と土佐国府を結ぶ官道として開設された歴史古道で、以来明治初期まで阿波と土佐を結ぶ重要な交通、
流通路であり、その延長上に野根山が(たまたま)
存在するという理由だろう。

つまり、野根山は野根山街道があっての存在意義なのである。自ずから四国百名山は目標の山を四国四県の
文化的、地理的条件を勘案して選定されており、そこを歩くことで四国の自然や文化に触れる事を目的の一つ
にしているのだろう。


ならば、ターゲットは野根山ではなくあくまでも野根山連山を繋ぐ「野根山街道」である。

この退屈で長い2点間を結ぶ行程を歩く為他の人達も悩んだ様に、自転車を使う方法や野根からバスで奈半利
まで帰る方法など色々検討したものだった。


トンちゃん達が同じく四国百名山を歩いている事を知り、車2台で行く事を提案すると快諾を受けた。そこで
相棒のマーシーさんを誘って四国百名山最後の記念にする事にした。

日程は天気予報で悩んだ結果、4月23日の昼から雨が上がると見込んで決行する。


山と渓谷社 「四国百名山」完登記念は野根山街道 (記念垂れ幕はトンちゃんご夫婦よりの贈呈)



この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)を使用したものである 
野根山街道 全ルート歩き  奈半利〜岩佐の関所〜四郎ヶ野峠〜野根

4月23日、05時高松の自宅を出発、06時25分四国中央市のイオン駐車場でマーシーさんと待ち合わせ、
高速高知道の立川インターで合流。10分位の遅刻で済んだが、折からの雨が激しく降り続く。前線が通過する
のが09時〜10時なので覚悟の上で動揺はない。

南国インターを下りて国道55号線を奈半利、室戸経由で下山口の東洋町、野根へと進む。交通量も雨量も多く
、野根大橋を渡ったのが09時40分頃。 その辺りで車を駐車出来る場所を探す。すると道端の低い空き地に
大雨なのに何故か「青空市」の看板があり4〜5人のオバサン達が何かを売っている。



車を置かせて貰う様交渉すると自分達も土地を借りているとの事だが、何か売り物を買えば「その辺りに置いち
ょきや〜」と言う感触があった。道端の防波堤付近にも駐車スペースもあったが、波を被ると嫌なので果物や
サンドイッチを買って商売の邪魔にならない場所に車を止めさせてもらった。

おばちゃん達は雨で暇なのか「どこへ行きよる?」と聞くので行程を説明する。「明日行くかえ?」と又聞くの
で今から奈半利へ帰って野根山街道を歩くと答えると「こじゃんと雨の降っちゅうに、ど〜いてこんな日いに行
くがかえ〜」と中々放してくれない。そこに買い物客の車が数台来て店が賑やかになったのでこれ幸いにトン
ちゃんの車を招き入れそちらに荷物を移して出発する。


奈半利への道中、トンちゃんが「この雨大丈夫でしょうか?」としきりに聞く。無口なま〜くんパパもちょっと
不安げだ。
「心配はご無用! 昼までには必ず止みます!」と断言するボクちゃん。その時、マーシーさんは心の
中で「わたしゃ 出来たら今からでも帰りたい・・・」って思ってたそうだ。それ位ひどい雨だった。


11時過ぎに奈半利町役場に到着。いよいよ振り出し地点だ。統一地方選挙の不在者投票の為職員が部屋にいた
ので野根山街道の始点である「高札場」を聞くと親切に教えてくれた。




前編      「野根山街道」 奈半利〜高札場〜朝休み〜一里塚〜米ヶ岡〜笑い栂〜宿屋杉〜岩佐の関所 
(テント泊)
平成23年4月23日



奈半利町役場駐車場で準備をしていると西側の海上がある場所から明るくなっている。11時20分出発する
時には雨が丁度止んだ。マーシーさんだけが雨具を持ってきておらず大きなコウモリ傘を出している。これで
はサマにならなので私の登山用折り畳み傘を貸す。

町役場の左側を抜けて車の通れる路地を郵便局と学校の横を抜け、更に国道55号線の信号を渡って真っ直ぐ
進むと直ぐに「高札場」があった。この起点さえ確認出来ればあとは親切な高知県庁の方に送って頂いた
「四国の道」地図通りに歩けば比較的簡単だと思えたので安心した。


11時25分、高札場の変則四つ角を右に曲がり細い道路を進む。4人共気合を入れて、いよいよ野根山街道
のスタートを切った。早速楔形に分かれた分岐に出くわし、次の「送り番所」への標識が無く二手に分かれる。
私とトンちゃんが右側の道を歩いていると路地にオバサンが居たので聞くと待ってましたとばかりに詳しく
楽しく説明してくれた。

土佐の人は存外、人情が深くて親切だ。
  


道を聞いて直ぐに小さな案内標識を見つける。まあえてして人生とはこういうものだ。又4人が合流して
11時33分「送り番所」横を通る。どうも今は普通の民家の様で標識が無ければわからない所だった。

野根山街道の往来が盛んな頃、ここに馬や若い衆が待機していたらしい。

笹飛脚は野根山街道約35kmを笹が枯れない間、つまり三時間余りで走り抜けたらしい。今で言う「トレ
イル・ランニング」(トレラン)の元祖である。


送り番所を過ぎると野根山街道の道は田んぼや畑の中をぬって続いており、正面の山は雨上がりの霧が低く
垂れ込め、丁度今から次第に上に昇っている所だった。


水が豊かで、柔らかな新緑に包まれた高知の里山風景が目に優しく沁み込んでくる。随所に四国の道、野根山
街道の標識があるので
道を間違う事もない。ビニールハウス横を通って野根山街道の大きな白い標柱の立つ橋を渡る。
11時45分、平野部から山間部に入る登山口に到着。大きな野根山街道の標識が立っており、四国の何処に
でもある登山口と同様にお墓が両側に沢山見られた。


 
   奈半利町役場を11時20分元気に出発            高札場 土佐藩の公示場所で野根山街道、西の出発点

 
    この様な路地を進む                         送り番所跡  番屋と馬屋があった

 
  畑のあぜ道を山へ向かって歩く                   11時45分 野根山連山の登山口に到着


もし米ヶ岡までず〜っと車道歩きになれば、私の計画は事実上失敗に等しくなる所だったが、旧街道が残って
おりほっとする。


野根山街道を歩く人はほぼ全員米ヶ岡を起点に考えており、この区間を歩いた記録があまり無いのだ。小高い
坂を上がると「白石神社5.8km」の標識に従って右手の道を進む。丸太で砂止めをした階段上の道を更に
上がると、シダと広葉樹に囲まれたとても雰囲気の良い道になった。足元には見たことも無い様なドデカい
松ぼっくりが無数に転がっている。

孫のお土産に一個ザックの腰ポケットに仕舞うが大きすぎてチャックが閉まらない。
(これは後日、小学校に上がった孫にやると喜んで持って帰った。きっと学校で自慢するんやろなあ)

12時10分「水のみ場」に着く。野根山街道沿いにはこの「正月が谷」を水源とする水のみ場以外にはあと
2箇所しかないと記されている。(あと2箇所は米ヶ岡と岩佐の清水)


更に進むとシダが両側高く生い茂り、道が大きく掘れ込んで石がゴロゴロ転がっている。恐らくここは大雨の時
に雨水の通り道になっているのだろ。12時25分 「朝休み場」に到着。我々にとっては「昼休み場」だ。

こんなに遅く奈半利を出発して果たして今日中に岩佐の関所まで着けるのだろうか・・・

 
    右手の街道筋へ進む                          気持ち良さそうな道でしょ

 
     ツツジが咲く柔らかい景色                     もう最初から参ったわ この風景

 
  
    12時10分 最初の水飲み場               12時25分 参勤交代の行列が朝休憩した場所に着く


さて、
参勤交代で高知城下を出発した300〜400人の行列は約20km歩いて赤岡で一泊目、
次の安芸まで18km余り歩いて二泊目、更に田野(奈半利川河口当り)まで約16km進んで三泊目、
ここから四日目に35kmの野根山連山越えを一気に歩き抜く訳である。


やっぱり殿様を山の中に泊まらせる訳にもいかないし、テントや寝袋が無い時代、大勢のお供の家来300人や
400人の野営が戦(いくさ)でもない限りかなり無理だったのだろう。


だから田野を暗い内から出発し、ここで「朝休み場」で朝の休憩やまともな朝食を取った場所なのだ。

曲線美を誇る巨木や広葉樹の落ち葉を踏みながらセラピーロードを更に歩くと、12時42分左手に登山口らし
き場所が見えた。斜面を下ってみると広い舗装道路がすぐ横に通っており白い標識は植樹記念のポールだった。

また街道に這い上がり皆を追うとすぐに先ほどの舗装道路を街道が横切った。

道路を横断して進むと街道は歴史を刻んだ掘れ込みが更に激しく、両側に羊歯(シダ)の生えた道となる。
この間の標識は奈半利と白石神社(米ヶ岡登山口)の方角と距離を記しており「四国の道」として整備された
安全な遊歩道と言える。


13時に又舗装道路に出て歩いていると左側に生活体験学校・旧米ヶ岡小学校方面が矢印で記された標識が立っ
ていた。13時11分又車道を外れて街道に入ると直ぐに道路際に石の標識がある「一里塚」に到着

それから数度、舗装道路、旧街道を忙しく繰り返し、短い旧街道を歩く意義が余り感じられなくなった頃、又
広い車道に出る。
この車道分岐には正面、白石神社1.6km、右、池里、花田とある。

13時40分何と左側にダチョウが二匹大きな目を剥いて柵の中を闊歩している。ダチョウは見れば見るほど
奇妙な顔をしている。何故ここにいるのかさっぱり訳がわからないが、とにかく日本には全く馴染まない動物で
ある事は確かだった。


13時45分旧米ヶ岡小学校横を通り正面の森へと進む。そこを抜けると右手に水田が広がり、独特の雰囲気を
持った空間が現れた。ここが白石神社=米ヶ岡登山口だ。時刻は13時50分なので奈半利から丁度2時間
30分かかった事になる。


 
  よさこい踊りでもしている様な陽気さがある           米ヶ岡まであと半分   こう言う標識に励まされる


             歩き始めと言うのに こんなにいい景色なのだ

 
      舗装道路を横切る                               これも凄い道やわ

 
         又 道路に出る                        ユキモチソウが沢山咲いている

 
          一里塚は舗装道路脇                    オメー達は一体何処から来たんや〜〜

 
  「米ヶ岡生活体験学校」 寄るのやめとこ                 山間部の入り口に水田が広がる


  13時50分 白石神社に到着    ここがいわゆる 野根山街道登山口となる場所  米ヶ岡


江戸時代中期、農家の次男三男対策として新たに水田・農地の開墾に尽力した庄屋・白石伝左衛門を祀った白石
神社がここ「米ヶ岡」にある。


そしてここがいわゆる現代の野根山街道の出発点でもある。13時50分、我々はやっと「野根山街道登山口」
出発点に着いた訳だ。


休憩所の東屋傍にはしだれ桜が植えられており水量豊かなクリークがある。夏にはホタルが舞うような雰囲気を
感じさせる日本の原風景だ。農家の軽トラが2台停まっていた。


奈半利を出発して丁度2時間半の行程だったが、やはりここを歩いた事は正解だったと確信する。東屋で遅い
昼食タイムとする。白石神社へ石段を上がるが社殿は粗末で味気が無い物だった。


 
 白石神社  社殿はちょっとシンプル                 米ヶ岡の登山口休憩所


今日初めての休憩の後、14時17分 暗い竹藪の間を少し上がり、リンドウやユキモチソウの咲いた竹やぶ
道を進む。この掘れ込んだ道は旧道の特徴で歴史を感じさせる雰囲気たっぷりである。


やがて竹藪はスダジイなどの背丈がある雑木林に変わる。14時40分少し笹が現れると左:野川、右:
須川の標識が立っている。この辺りは野根山街道の北側には奈半利川の支流「野川川」が、南側には少し
短い「須川川」がほぼ並行に流れており、その川沿いに林道が敷設されている。

道は次第に広くなり、大きな石がゴロゴロしているが平らな場所には部分的に石畳の跡が見られる。すると
14時53分「石畳の道」の標識が現れた。


更に進むと15時03分「二里塚」に到着。次第に山間(やまあい)に入って行き、道は少しばかり荒れて
いる。石畳の坂を登って行くと15時32分「六部様」と言う六部遍路を祀った場所に到着。六部という遍路
が水に飢えてここで亡くなる寸前杖を突き立てるとそこから水が湧き出たという・・・え? それじゃ何故
助からなかったの?その疑問に答える次の回答は「鉄砲で撃たれたのかも・・・」というものだった。
ようわからん

まあええわ 古い謂れは深く追求しないのが原則や

兎に角、我々はこういう標識に励まされて確実にその行程が消化されている喜びを感じる訳で、標識と言う物
は街道歩きの原動力でもある。


15時38分 峠部に「御茶屋場」の標識が立っている。見ると、白石神社から 3 km、宿屋杉まで 3.5km と
ある


マーシーさんが「ビールのジョッキがあるわ」と右手の杉を指さす。裏側を見ると彦ばえが生えて、これが本体
と合体しさしずめビールのジョッキ柄の様になっている。う〜〜んさすが酒飲みの発想〜




 
   さあ 米ヶ岡を出発するぞ〜〜                   う〜〜ん  いい色だこと

 
     ユキモチソウが沢山見られた                       凄い樹だなあ  スダジイ

 
   退屈しのぎに看板もあるでよ                       左:野川   右:須川  分岐  14時40分

  
      石畳が残った道                          ここも結構残っている


 
    15時03分  二里塚                        15時32分  六部地蔵

 
    お茶屋場                                   ビールジョッキの樹



ふと気がつくといままで天気は回復気味であったのに急に辺りに霧が沸いてきた。15時45分と言うのに夕方
の様に暗い。不思議な霊気を感じて前方に目をやると「笑い栂」の標識が霧に浮かんできた。
あっ これが
木こりの浜渦寿之助が出くわした妖怪変化の現れる前兆か!?


上を見上げると近くで笑い声が聞こえた。 ぞ〜〜として霧の中辺りを見渡すと、何〜んだトンちゃんの笑い声
じゃあないの。びっくりしたな もう〜〜〜

お騒がせな「笑い栂」を通り過ぎると急に霧がス〜〜と引いた。う〜〜ん 不思議な事もあるもんだ。

再び見通しが良くなった登山道を歩くと足元にツバキの花が沢山落ちて、落ち葉だらけの殺風景な山道を彩っ
ている。薮ツバキの枝は光を求めて頭上高く伸びており、視界の中には花は見えない。ちょうどヒメシャラや
ナツツバキの花が頭上彼方から足元に落ちて初めて花の存在に気がつく様なものだ。


やがて日差しの中に巨木や立派な杉並木が現れ、その後ダラダラとした登りが続く。登りになると、さすが
寝不足のトンちゃんが遅れ気味となる。でも今まで背負った事のない重量のザックで頑張っている。一方
ま〜くんパパはこちらも今まで背負ったことの無い重量のザックだが、相変わらず無口で元気そうだ。


16時30分頃杉の並木道が木漏れ日を作り非常に美しい景色となった。この辺りに旧藩政林があるらしい。
すぐ傍には「中岡慎太郎」の解説板があった。野根山山麓、北川村の出身でこの近くを脱藩していったのだが、
なぜこの場所に掲示板があるのか良くわからない。アップダウンがあるものの、比較的なだらかな道も多いので
歩くのは楽だ。


西陽が左手後方よりよく入り込み明るい尾根が嬉しい。16時40分、宿屋杉まで800mの標識が現れホッ
とする。


16時54分「三里塚」があり、程なく「宿屋杉」に到着。なるほど・・・写真では良く見ていたが実際この目
で見ると感激する大きさだ。全員はしゃぎまわって記念写真を撮る。


 
 坂を上ると「笑い栂」の表札が                   トンちゃん  霧の中で笑わないでよ〜 けっけっけ

 
   薮ツバキが街道を赤く飾る                    う〜〜ん  迫力満点

 
   綺麗な杉並木に全員うっとり                    この辺りに旧藩政林があったのか

 
     倒れそうになってもなお踏ん張る               斜面が脆いので整備は大変だったろう

 
     日差しが嬉しい                           どこま〜でも行こう ♪ 真っ直ぐな道やで

 
 16時54分 三里塚を通過                       お〜〜これが宿屋杉か〜  凄いなあ


    ヒコーキ1号さんに敬意を払って編隊飛行


                     まあ  しぇ〜〜もやらせてもらいまひょ 

さて、時刻は17時を回った。途中まではトンちゃんの疲れ具合を心配して場合によっては宿屋杉で宿泊を
考慮に入れていたのだが・・・


ここから岩佐の関所まではまだ4.3km・・・約2時間ちょっと
「トンちゃん どうする?」「行きましょ!」おっ 俄然元気が出てきたみたいや

良かった! 翌日も四郎ヶ野峠から野根まで8kmのおまけ歩きも付いているので、今日岩佐の関所まで進
めれば楽勝となる。


17時15分 野川林道200mの標識を左手に見ながら、宿屋杉に宿屋を取らずに岩佐の関所へ向かって
階段状の登山道を上がっていく 5分もすると未舗装の野川林道を横断する事になる。今まで道の左手展望
だったのが、ここからは道の右手、南側の景色が開けてくる。


これまであまり展望のない野根山街道だったが、ここからしばらく太陽の光を浴びた隣の尾根が見渡せて爽快
な気分になる。次第に潅木と笹が増えてきて道の両サイドに立ち並ぶ。これも古道の面目躍如の風景である。


17時36分、電波塔(登山口)600mの分岐標識に到着。その後、杉と笹の細尾根急登りとなり、やがて
おびただしく密生した笹が両側に塀のように立ち並んだ広い街道を登ると17時48分 熊笹峠に至る。

もし、ここが四国の道として整備されていなかったなら大登岐山以上の笹薮であった事だろう。熊笹峠から
見る南側の山々と空はこれぞまさしく室戸近くにある野根山街道の風景だ。


17時58分、右手に装束山60mの標識がある。マーシーさんはそこを過ぎ去ろうとしている。ピークハン
ターの私は「もうここに来る機会はまず無いのだから60mの寄り道をしよう!」と提案し先を急ぐ身なれど、
息を切らせて階段を這い上がる。


そこには展望台と三角点があって、南側の展望もすこぶる良かった。ただ室戸岬や太平洋は確認できなかった
が眼前が開け、緑の山を吹き抜ける涼しい風を吸って爽快な気分なり満足した。


元の登山道に帰り、しばらく笹の間に続く道を進むと「装束峠」に到着。ここは野根山街道の最高点
(1,082m)で国許に入る旅の衣装替えの場所であった。
一説には冬でもここを登るのが暑いので旅人は
衣装を脱いだりした場所とか、お嫁入りの娘さんが山越え衣装から花嫁衣裳に着替える場所だったとも言われている。

そこからは当然の事ながら下り坂となり、18時17分「お産杉」跡を通過。

 
      17時15分 宿屋杉を出発                       直ぐに林道を横切る

 
   右手の尾根が見渡す事が出来る                  四国の深い山で見る風景だ

 
     細尾根を上がっていく                           まるで笹の生垣や

 
17時48分 熊笹峠で良い風に当たる                      凄い笹の濃さやね

 
        装束山への分岐                           装束山の展望台から

 
    装束山の三角点                            18時10分  装束峠

 
日がだいぶ傾いて来た まーくんパパも頑張る            18時17分 お産杉跡を通過

 
        お産杉跡                          薄暗くなった登山道を下る


お産杉にまつわる 「鍛冶の母」の話

土佐山内家の資料集「南路志」などよればお産杉にまつわる話とはこうだ
昔、奈半利の女性が野根へ行く途中、この辺りで産気づいた。(無茶な〜臨月にこんな場所歩くか〜) 折り
良く元気な飛脚が通りかかり、その女性を近くの大杉の低い枝へ挙げた所、案の定オオカミが襲ってきた。

飛脚は次々に撃退すると生き残ったオオカミが「たま〜強い飛脚にかわらん こりゃかなわんちや 崎濱の
鍛冶が婆を呼ぶに及ばん 覚えちょりや」と言いながら一旦退散。 

暫くすると何故か鍋を被った白い毛の大きなオオカミが登場! 勇敢な飛脚が鍋割りの一撃を見舞うとほうほうの
態(てい)で逃げて言ったという。(弱わ〜〜)


無事お産を終えた女性を他の旅人か岩佐の村に預けて、翌日その飛脚は崎濱の民家でこの鍛冶屋の婆さんの様子
を探る。鍛冶屋には元気な婆さんが住んでいるそうで、その鍛冶屋に行き婆さんの知り合いだと言うと、その老婆
は前日転んで頭に怪我をして寝ていると言う。


ん? やはり頭に怪我か・・・ 飛脚はこの老婆をオオカミの化身と自己責任で判断し、切り殺してしまう。 
するとこの婆さんの亡骸はオオカミの姿に変わっていたと言う。そしてこの家の床下には今まで食い殺してきた
人骨が出てきたらしい。 怖いですね 恐ろしいですね 

おまけ話だが、今だにこの鍛冶屋の血を受け継ぐ人間は毛が逆立って生えているという。
調べる方法は手の産毛を下側に撫でると毛が逆に立ち上がり、上に撫でれば順目となるらしい。一度、マーシー
さんの手をこっそり撫でてみなければ・・・・・


「日本怪談全集」桃源社を元ネタに田中貢太郎氏が纏めた「鍛冶の母」にはこの物語が次の様に纏められて
います。 鍛冶の母の怪談話は ここ


いよいよ岩佐の関所へ

てな訳でこのお産杉を過ぎて薄暗くなってきた坂を下っていると、ま〜くんパパの携帯が鳴り、ザックから取り
出している。ちょっと時間がかかりそうなので「先に岩佐の関所まで行って暗くなる前にテントを張っています
わ」と告げて笹飛脚の様に急いでマーシーさんを追う。18時28分 杉の大木があり、マーシーさんを幹に掻き
つかせて撮影。やはりここの大杉は迫力がある。


18時45分もう薄暗くなった道を歩いていると、前方が開けて眼前に門の様な建物が現れた。これが今日の
宿泊地である岩佐の関所だった。マーシーさんは早速左手の上段にある東屋でテントを張る準備をしていた。
雨上がりの地べたにテントを張ると覚悟していたが、運よく東屋があり快適なテント泊となりそうだ。


 
   こりゃ でっかい杉にかわらんちや  暗いのでブレました           西側に夕日が沈む


    18時45分 岩佐の関所に十着        撮影は平成23年4月24日朝


トンちゃんとま〜くんパパが少し遅れて岩佐の関所跡に着いた時にはテントの設営は終わっており、東屋に大満足
の様子だった。食事の支度にかかると、木下家のお墓のある方角から冷たい風が吹き、とても寒くなった。


ヘッドランプを点けて、テントの陰で風を避けながら夕食を作る。と言ってもトンちゃん達は水も火も要らない
エマージェンシー・フードのカレーと牛丼、私とマーシーさんはインスタントのラーメン。後は各自つまみを出
し合って、清酒、ビール、焼酎のお湯割りと酒盛りとなる。


楽しい語らいの夜だったが、21時頃になりあまりにも寒いので其々テントの中に入って寝る事にする。


 
こんな場所にテントを張れるとは想定外!               取り敢えず我々としては豪華な宴会やった


丁度峠と峠の間の鞍部の様な場所に、往時には関所関係者が70人も住んでいたという岩佐村だけあって平坦な
敷地である。ここを宿泊地に選んだ理由は水場とトイレと平地の存在だ。マーシーさんとならどんな場所にでも
テントを張るのだが、今日は上品なお客様が二人随行しているので、初幕営に好印象を持って頂かなければなら
ない訳があった。


岩佐の関所」

土佐には三大関所がある。
立川番所」これは後に参勤交代の主流になる笹ヶ峰〜新宮〜川之江の北山越えとして有名である。
池川口番所」は佐川から池川、越知、吾川を経由して雑誌山(ぞうしやま)の北側の県境を越え伊予に入り、
三坂峠から松山へ入った街道の関所と思われるが、山沿いのルートが今でも残っている。
そしてここ「岩佐の関所」
である。

「岩佐の関所」は野根山街道のほぼ中間点で藩政時代には交通者の管理、脱藩、離散者などの取り締まりに
重要な位置を占めていた場所だ。番所長は木下家、番人頭は川島家、その使用人など総勢70人程の関所村を
形成していた。

野根山街道が奈良時代から官道として使われた街道だけにこれまでに色々な歴史ドラマが繰り広げられてきた。

エピソード その1)
古くは土御門(つちみかど)上皇流刑の道

承久の乱(1,221年)で武士(関東勢力)と天皇・貴族(関西勢力)が大激突を起し、結果的に後鳥羽上皇・順徳
上皇が敗れてそれぞれ隠岐、佐渡に流された。優しい性格から、鎌倉幕府(北条氏の執権政治)に対する挙兵に
反対していた後鳥羽上皇の第一皇子「土御門上皇」ではあったが、父親や異母弟の行った責任を感じて自ら土佐
の幡多へ配流となった時にこの野根山街道を通った。
7ヶ月後に鎌倉幕府によって、より京都に近い阿波に配流代えとなり、又同じ道を辿り徳島へ行くのだがすぐに
病気になり亡くなってしまうのである。

この土御門上皇が野根山街道にてここ岩佐の清水で冷たい水を飲み「ふぅ〜 これは美味なるぞ 朕はこれを
 いわさ水と名付けようぞ」とおっしゃられたとか・・・

最初幡多への遠流は10月で、その7ヶ月後に又ここを通っている事から、岩佐水を飲んでホッとしたのは阿波へ
の帰り便だったと思われる。

エビソード その2)

高知の英雄、長宗我部元親の四国制覇への阿波・讃岐攻略の道、又長宗我部氏にとって代わった山内一豊のお国
入りの道である。大河ドラマ「功名が辻」では海路浦戸湾から土佐に乗り込んだ事になっているが、事実は甲浦
から陸路でこの野根山街道を経て土佐に入ったらしい。土佐においてはこの2重武士団の存在が上士、下士の差別
を生み、幕末の動乱に繋がっていくのである。


エピソード その3)江戸時代、参勤交代の道

江戸中期に参勤交代の主流が先に述べた立川番所がある北山ルート(領石、国見山、笹ヶ峰、川之江)になる前は
この野根山街道が参勤交代のメインルートであった
。大名行列は街中を練り歩く時は勇壮に豪華に振舞うが、見物
人の居ない山の中はなるべく早く駆け抜けたと言われている。
北山ルートに変更されたのは6代藩主山内豊隆の頃、暴風雨が引き金と言われているが、8代藩主豊敷(とよのぶ)
公が甲浦からお国入りの時に、幕府の巡検使と野根山街道で克ち合うのを遠慮してこれを避け、室戸周りの海路に
切り替え暴風雨で苦労したって話があるからやはり参勤交代のルートはフレキシブルだったのだろう。



エピソード その4)野根山二十三烈士 屯集場所 (野根山事件)

土佐の独眼流・清岡道之助を含む23志士が武智半平太の釈放や藩政改革を求めて元治元年(明治維新の4年前)
7月26日武装し集結したのがこの岩佐の関所。藩主、山内容堂や重役(後藤象二郎や板垣退助も含む)はこれを
反乱と見なして足軽を中心とした800人の討伐軍を差し向ける。戦いを避けて阿波から海路で長州へ逃げようと
するも嵐で船が来ず、陸伝いに歩き牟岐で阿波藩に投降する。

彼らは、結局同年9月1日〜3日に土佐藩大目付小笠原唯八に引き渡され、その夜松明を点して野根山街道に入り
岩佐の関所で仮眠の後、9月4日未明奈半利まで護送される。大目付小笠原唯八の懐には藩からの沙汰状があった。

「郷士の清岡道之助ら二十余名、野根山に馳せ集まって強訴し、ついには自国を捨てて阿波路に逃亡した事は不届き
至極。吟味を待たず、東部の郡内において速やかに斬首せよ」と言うものだった。

かれらは9月4日田野で収監され、何の取調べも行われる事無く、翌9月5日深い溝を掘られた奈半利河原で高知
から派遣された首切り役人によって斬首処刑になってしまった悲しい歴史舞台である。

彼らは明治時代を確実に引っ張る原動力になったであろう向学心に燃える若者や医者などのインテリ集団である、
少しのタイミングを間違ったばっかりにクーデター分子として
幕末の四賢侯」などと言われた山内容堂によって
いとも簡単に歴史から抹殺されたのである。


野根山二十三烈士の解説サイトは  ここ




エピソード その5)怪談木下お由里

江戸時代末期、岩佐関所の番所長、木下家の娘にお由里さんという絶世の美女がいた。

悲話に絶世の美女が登場するのは定番なのだが、そのお由里さんが佐喜浜の庄屋寺田家の跡取り息子雄ちゃんと
結婚して子供を授かる。しかし、姑との関係がこじれて赤ん坊を置いたまま里に返されてしまった。お由里さん
は赤子が恋しくて悲しみの内に亡くなってしまうのだが、それからこの辺りに妙な事が起こる。


このお由里さんが岩佐村から歩いたり、籠に乗ったりして佐喜浜へ行くのを見かけた人が現れた。又、佐喜浜でも
同じくお由里さんらしい人が彷徨っているのを見かけたり、夜足音を聞いたとかという噂がささやかれる。


極めつけは旦那、雄ちゃんの知り合いがお由里さんの幽霊に赤ん坊が居る嫁ぎ先の門に張ってある魔除けのお札を
外して欲しいと頼まれ、恐ろしさのあまりそれを外してしまった。 その後、寺田家からは赤ん坊の泣き声が木霊
して、やがて泣き止むのです。

どうも夜な夜な岩佐村のお墓を抜け出して佐喜浜まで行き、又夜中にお墓に帰って来るって・・・・ あ〜〜〜
 怖わ〜   今晩もひょっとして・・・?!


こんな話がある因縁の場所ですから幽霊が出たって何の不思議もない。

私は無理に飲んだ焼酎のお湯割りで心臓がバクバクいって、おまけに隣のマーシーさんのイビキと寝返りで寝れ
ないよ・・・・


そして岩佐関所の夜は更ける・・・・




第2章 いよいよ野根山へと続く・・・   続きは  ここ




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