平成24年3月25日

石鎚三十六王子社巡り (その2)
今宮道王子社 第七王子社〜第二十王子社まで


平成24年3月10日に石鎚「一の鳥居」から第1王子社〜第6王子社までを歩いた。初めて王子社を訪ね歩く
旅は宗教心の無い私にとっても不思議と充実感を伴う旅だった。


第2弾はかつて石鎚詣で賑わった河口(こうぐち)から成就社までの今宮道沿いを第7王子社から第20王子社を
巡る事にする。



この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)を使用したものである 
カシミールソフトを使用したGPSトラックログ図

その昔、西条や小松から先達に引率されて来た石鎚登拝者達は河口(こうぐち)で休んだり泊ったりして成就を
目指した。
バスがこの河口まで開通した後も河口は石鎚登山口としての役割に変わりはなかっただろう。

文明の利器「石鎚ロープウェイ」(昭和43年開通)と「石鎚・面河ライン」(昭和45年開通)の新たな出現が
マイカーブームとの相乗効果で河口、虎杖、今宮集落、黒川集落を廃村に至らしめ、修験道の重みをも取り去る事に
なる。これは何も修験道の世界だけに限らずあらゆる生活様式に現れる変化である。


さて、出発点の河口、三碧峡附近は西之川から流れ出る川と高瀑から来る川の合流点であり、ここに黒川谷も合わ
さった河の口で石鎚登拝者が垢離取りをした場所らしいが川面まで下りるのも大変な断崖となっている。垢取離を
するのに最適な場所と思われる「黒川谷」附近に07時丁度に車を駐車する。


河口の旅館街には犬小屋に飼われている一匹の一見いかつい犬がいるのだがこれが意外と気が優しく愛嬌たっぷりで
近づくと人恋しげに尻尾を振って寄ってくる。お気楽アルプさんのブログではこの犬の名前が「小町」と呼んでいる
様だがそんなに美人(美犬?)という訳ではない。


07時06分いよいよ今宮道に入る。登山をしている時は何気なく潜った鳥居であるが、王子社巡りの目的を持つと
何か違た気持ちが芽生える。
今宮集落の守り神「丸八地蔵」が入り口に祀られていた。

今宮には二人の「八郎兵衛」が登場する。

今宮八郎兵衛」は今宮集落草分けの人で行者(役の行者?寂仙上人?)を成就へ案内したり行者の求めに応じて
村人を集めて道を作ったりしている。恐らくこの人を祀ったのが「丸八権現」ではなかろうか。

もう一人の「八郎兵衛」は長宗我部元親の重臣で「伊藤八郎兵衛」という人。長宗我部元親は土佐の悲運の武将で、
折角苦労して四国統一を不完全ながらも果たした矢先に豊臣秀吉の四国征伐の憂き目を負う。


この時、長宗我部元親の重臣、伊藤八郎兵衛が土佐より家来の藤原氏を連れて来て今宮に住み着いたと言われている。
この人が今宮、丸八旅館最後の女将藤原ユミさんが昔語りに「殿」と呼ぶ人で今宮集落を開拓したルーツある。
(大保木の歴史より)家来の藤原家は以来「藤原太郎左衛門」として代々今宮で重要な位置を占める事になる。でも
いくら調べても長宗我部元親の重臣に伊藤八郎兵衛と言う人は見当たらなかった


  
    黒川谷の橋近くに車を停める                     河口の今宮道入り口

  
        今宮道参道に入る                          丸八地蔵  先祖とある


以前マーシーさんとここを下った時はあっと言うだった道も登りは結構長いものだ。植林に覆われた暗い山道をジグザ
グに登っていく。


08時28分曲がり角に粗末なお堂が現れる。これが「三光坊不動堂」と呼ばれている建物だ。後で解説に登場する
香川県坂出の行者三光坊(常盤下勝次郎)はこの辺りを拠点に石鎚山修行をした人で、修行の成果を試そうと石鎚の天
狗岳から飛び降りて死んでしまったと言われている。いくら何でも修行の成果を試すのにいきなり天狗岳から飛び降り
るだろうか?おそらく修行中に誤って転落してしまったであろう悲運の人だ。この人を慕う人達によってこのお堂が建
てられた様である。


このお堂の裏手が開けた平地になっており非常に雰囲気が良い場所となっている。そこに平たい石板が積まれた第七
今宮王子社
がある。手前に石殿、その真後ろに赤い前掛けの王子石柱がお決まりの配置で並んでいる。


この王子広場は奥に広く、全く同じ配置で第八黒川王子社が断崖をバックに据えられている。

ここに2つも王子社を置く必要は感じられないが、もう1つの登拝道「黒川道」への配慮だろうか。奥の第八黒川
王子社は第六子安場王子社と酷似している覗行場で同じく「ヒトツバ」が生えた岩場から絶壁を眺め下ろす事が出
来る。しかしこちらは雑木が沢山生えているので今は覗きの行場という印象は薄い。勿論黒川道の廃屋も眺めやる
木々の中に見つける事は出来なかった。


第七 今宮王子社 (四手坂黒川王子社)

第八 黒川王子社

『今宮四手坂にあり(中略)三碧峡(西の川谷と石鎚谷落合)あたりの川を昔から垢離取り川と云い、(6番)子安場
王子で元結を切り、最後のこりをとり身を清めて登る。河口より今宮道を登ること八百米、曲がり角に椎の大木がある
道の傍に木造の小さい祠が四手坂王子である。大きい祠が三光坊不動堂と云い、香川県坂出の行者三光坊(常盤下勝次郎)
の霊を祀ってある。その裏を少し行くと峙(そばだ)った岩があり、真向かいに黒川宿所を手に取る様に眺め、眼下に
断崖幾十丈もあろうか雑木が生い茂り、黒川谷の水音が爽やかに聞こえる。この王子も覗の行場である。この二つの王子
を昔から黒川今宮両社の王子と云い伝えられている。(後略)』  (十亀和作著 旧跡三十六王子社より)


  

      植林の中、今宮道を歩く                  登山口から20分ほどの曲がり角にある三光坊不動堂

  
    不動堂の後ろ側にまず 第七今宮王子社がある  奥に第八黒川王子社が見える

  
     第八黒川王子社    写真を撮る時に幟を綺麗に差し直しています

 
     第七今宮王子社の王子像              第八黒川王子社の覗行場 ここにもヒトツバが生えている


                     今宮登山道へ帰る

08時35分元の今宮道に帰り上を目指す。登山道の右上に何かお墓の様な物があるので斜面を這い上がってみると
「三十六王子行者 法性院藤原智覚」と刻まれた祠があった。
登山道に復帰すると08時41分登山道から右手に
折り返す石垣の道がある。
以前マーシーさんと上から来てこの分かれ道をどちらに行こうか迷った場所だ。

右の石垣の道には王子道の青い標識がありこちらに進む。虚しく崩れ落ちた廃屋(茶屋だったのだろう)の向うに荒
れた大き目のお堂がある。
藁葺きの屋根にトタンを張っているがこれも朽ちている。整然と積まれた石垣がかつての
姿を想像させるのみである。王子道の指標があるのでそれに従い奥へと進む。


王子社を示す丸い鉄柱があり不思議な事にこれには「第九 二之王子社入り口」とある。恐らく単純な記入ミスだろう。
07時45分うっそうとした森の中に第九四手坂王子社がひっそりと佇んでいた。石仏は無く鉄製の錆びた蝋燭立の様
なものが見られた。


第九 四手坂王子社

『今宮字四手坂にある黒川今宮両社の王子社から登山道を登る事約二百米に四手坂行場がある。お山開き大祭の頃は
この休場で一休して登る。お山名物のトコロテンやアメユ等を売る掛茶屋である。一軒残った家も今は空家になって
いる。

この家は代々多郎左衛門を襲名する旧家で、当主も藤原多郎左衛門氏で現在は西条市に転居している。この家のすぐ
上に地蔵堂があり、旧盆には今宮の部落民が盆踊りを夜を徹して踊ったものだが、今はほとんど絶えてしまったよう
である。
昔はこの地蔵堂が百米ほど上の森の中にあって権現堂と云い女人禁制であった。明治維新まで(神仏分離以前)は
別当前神寺の上人が石鎚大権現門開祭を毎年三月三日この所に来て執行し、この祭りの常宿は藤原多郎左衛門宅で
あった。前神寺の上人が此の所に来るにも又お山に登るにも迎え送りは多郎左衛門が刀持ちとしていつも奉仕したと
伝えられている。』(十亀和作著 旧跡三十六王子社より)


  
登山道を外れた上側に三十六王子行者「法性院藤原智覚」   右手に石段が切り替えしている こちらに進む
のお墓


  
      竹林の中に崩れさった廃屋がある                 これが地蔵堂だろうか

        
  あれ? 第九 二之王子社入り口の標識が?      そのすぐ奥側に第九 四手坂王子社がある


四手坂の入り口にある 第九 四手坂王子社   鉄製の蝋燭立みたいな仏具がある



さて、続きのルートは四手坂王子社を回りこみ尾根伝いに急な坂を登っていく様だ。道の右手に神社跡の様なもの
があるので見に行くが、石灯籠が残っているだけで建物は残っていなかった。その上側の右手にも平たい場所があ
り神社があった形跡が見られた。


植林の急坂に向って進むとあちこちに王子社の標識がある。まあ四つん這いになる必要もないが確かに急な斜面で
あるが、下草がほぼ無いので歩き易い。チラチラ行く手の上方を見ながら足元に目を落としてひたすら上へ上へと
一歩づつ這い上がる。ネットが張られている場所に着き、これを交して右手に出る。下を見ると相当の長さでこの
ネットが張られている様だ。


08時00分細尾根のピークに着く。右手が開けているので少しルートを外して稜線を下がり展望を楽しむ。良く
判らないが手前の黒川尾根の向うに鋭い三つのピークを持った山が見える。恐らくこれが「三ヶ森」(みつがもり
)ではなかろうか。


登山道に帰って判りやすい植林の細尾根を進む。岩がゴロゴロした急坂を登ると08時09分前方の岩向こうに
王子社の目印になる幟(のぼり)がはためいていた。


丁寧に積まれた岩板の上に王子社の石室とその真後ろに王子社石柱像。右手前には大きな石板を利用して竈(かまど)
の様にしつらえた入り口に鉄製の鳥居が置かれ、その奥には先ほど四手坂王子社で見た円筒形の鉄製の仏具が置い
てある。お札を入れるステンレス製箱が不自然な様に新しいく輝いていた。


第十 二之王子社

今宮字四手坂王子から約三百米ほど上に楢、椎樫の大木が繁茂し、眼下に黒川宿所を又目を転じると河口三碧峡
あたりを眺め、実に風景絶佳日の暮れるのを知らぬほどである。

小さい鉄の鳥居と鉄の桐が祀ってある。昔は河口より今宮へ峰伝ひに登山道があり至って急坂でこの附近一帯を
四手坂と名付けられた訳は、急坂を両手両足で四つんばいになって登ったことから、四手坂と呼ぶ様になったもの
と考えられる。今は四手坂の休場から斜めに今宮へ道が改修されているので二の王子へは細道はあるけれど人通り
もなく、置き去りとなり今宮の人でさえ知らぬ人が多い様である。』(十亀和作著 旧跡三十六王子社より)


〜〜ン 当時はまだ植林が進んでなくここから河口三碧峡あたりを眺める事が出来たんだろうか?

  
四手坂王子社の右上にあった寺社跡 権現堂跡だろうか?   右手の尾根筋からいよいよ四手坂に入る

  
 確かに急坂だが下草がないので歩き易い                行く手にネットが張られていた

   
        これは一体何なの?                    うひゃ〜〜 これがいわゆる覗行場やんけ


     今宮道で唯一の胸がすく様な展望所    奥は三ヶ森(みつがもり)だろうか

  
     岩がゴロゴロした植林の尾根              細尾根になると植林は減る 向こうに幟がはためいている


   第十 二之王子社

更に次の王子社へ向って尾根道を進む。比較的なだらかな左手は植林が続き、地形が切れ落ちている右手は自然林
というパターンが続く。登りは相変わらずであるが先ほどまでの四手坂の様なことは無い。


08時26分大岩のある小尾根を右にトラバースし前方に出る。08時30分尾根部に少し岩が出てくるが、大した
難所でもないので岩を乗り越えると細尾根のコル部があった。更に少し進むと細尾根に生えた古木の下に小豆王子社
の幟が見えた。この場所は右手が開けて王子社の姿が映える。


石室は他の王子社と同じだが王子石柱が明らかに違っている。つまり他の王子社では四角い石柱の一面に王子像が彫
られているのだが、ここの石柱は王子像の頭部がお地蔵さんの様に丸く彫られている。真正面から見る小豆王子社は
後ろが絶壁の為まるで宙に浮いている様にさえ感じる有り難い姿だ。


第十一 小豆禅定王子社

『今宮にある、二之王子から矢張り、峰伝いに約二百米位登ると、老松の大木が枝を張りその周囲に小松や雑木が密
生し、一つの森を形成している(中略)、神厳な森そのものが小豆(おまめ)禅定王子である。ものもらい(目いぼ)
が出来ると、この王子へ来て小豆を供へ石鎚大神に願をかけ、その小豆一粒を目いぼにあてて落とし「小豆かと思っ
たら目いぼが落ちた」と唱えて後を見ず帰ると必ず目いぼが治ると伝へられている。』

(十亀和作著 旧跡三十六王子社より)

  
     適所に王子社道の標識がある                  岩尾根を右手にトラバース

  
      山には雪がまだ多い                        前方に岩尾根が現れる

  
   岩尾根は比較的簡単に越えられる                 目指す次の王子社が現れた

 
細尾根に設置されているので正面はこちらになっている        確かに王子社の前は狭い

     
       何という素晴らしいシチュエーションにある王子社だろう
       ここの石柱の王子像はお地蔵さんの様に丸く削られていた。


08時42分去り難い風景に見送られながら次に進む。すぐに厳しそうな大岩が尾根に現れる。少し岩に登って先
を眺めるがここを突破するには無理がある。王子道標識に従ってこの岩を左にトラバースする。すると踏み跡と王子
道指標は前の尾根には復帰せず横掛けのルートを取る。眼前には右手から延びる支尾根があり、08時52分その
支尾根へ這い上がる。すると支尾根を乗り越えたなだらかな斜面に王子社が現れた。


鬱蒼とした植林をバックに不思議とこの王子社の辺りだけは明るい。これが第十二今王子であるが、今宮集落に近
いので「今宮王子社」と呼んだ方が正解かも知れない。


第十二 今王子社

『今宮にある、小豆禅定王子から四百米ほど登ると、楢、しでの大木が2畝位に茂っている。今宮部落の西方の屋根
を廻り五百米位の所である。(中略)今は薪取りや山の手入れをする人の外は人足も少なく、狸が住んでいると云う。
土地の人は(いまおやじ)と呼んでいる。』(十亀和作著 旧跡三十六王子社より)


この本の解説だけではとうてい今王子に到達出来ない。今まで尾根沿いにあった王子社がこの今王子だけ尾根筋か
ら外れた場所にあるのだ。


  
    大きな岩尾根は左へ巻く事                   振り返ると鋭い小豆禅定王子社の岩尾根が・・・

  
     植林地帯を左へトラバースする          尾根には上がらず斜面をそのまま進むと前方に支尾根が見える

  
支尾根を乗っこすとこんな風景に (支尾根に上がる)        支尾根の上側に王子社の幟が見える


                     安定した支尾根に置かれた第十二今王子社


さて、ここから先ほど外した尾根に向って急坂を這い上がる事になる。おびただしい程に植えられた植林の間に岩
や倒木、枝打ちを避けながらひたすら稜線を目指す。尾根のピークを左に巻きながら09時10分稜線部に着くと
そこは珍しく栂、楢、赤松などの自然林地帯だった。なだらかで平和な尾根を進むと再び植林の細尾根となる。


左に少しトラバースして倒木を潜ると再び尾根部になり雪が積もっている。09時23分栂の大木の下に王子社が
現れる。
周りは鬱蒼とした森で風がとても冷たいが、そこへ日差しが差し込んで暖かな帯を作ってくれる。

第十三 雨乞王子社

今宮にある。今王子から尾根を登る事五百米、坂はけわしく、たどれば細い道はあるが雑木雑草が生い茂り通れ
ない。一旦今宮部落に出て登山道乳杉の林を抜けて曲がり角の附近から山道を登り尾根に至ると、廻り丈令の栂の
大木数本あり、境内もよろしく見晴らしも良い。元金比羅社を祀ってあったが明治四十二年神社合併の時、今宮の
氏神三倍神社へ合祀され、今はお社の跡のみ残っている。この王子は昔旱天の時土地の人々が集まり、石鎚大神に
雨乞いすると雨が降ったと云う。今宮部落の人はこの雨乞王子を雨降(あまもり)と云っている。』
(十亀和作著 旧跡三十六王子社より)


この本では一旦今宮道へ下りて又登り返す事になっているが、こちらは尾根伝いに進んで雨乞王子社に至った。

          
     岩と倒木だらけの急坂を稜線へと登っていく       稜線へは直登せず左を巻きながら上がっていく

  
稜線はなだらかな自然林地帯 (上からくると分岐はわかりにくい)  稜線を進むとすぐに植林が現れる

  
    ポッキリ折れた木を潜る                   稜線の下側から振り返った王子社の姿


                   第十三 雨乞王子社


ここから少し下り気味の細尾根となる。相変わらず左手にはおびただしい程の植林地帯である。1つ小さいピーク
を越えて次のピークへのコルから09時32分王子道は左へと尾根を逸れる。踏み跡が植林の間を分けて延びてい
る。直ぐに前方に電柱が現れ、09時34分あっけなく今宮道に飛び出した。この電柱は成就へ向う今宮道沿い
に続いているのだ。きょろきょろ辺りを見回すがマーシーさんとここを下った筈なのだが、ドンドン歩きの為景色
に記憶が無い。


あ〜これでやっと今宮道を外れた王子社が終わった。安堵感を感じながら掘れ込んだ今宮道を成就に向う。09時
49分笹が現れるとその左コーナーに次の王子社があった。
これが花取王子社で後ろへ細い尾根が下っている。
何か無いかと雪を被った細尾根を下るが特に何も無い。樒(しきみ=花芝)らしき木は数本確認出来た。左手下に
向かって踏み跡があったのでこれに沿って下がるも特に何も見られない。



第十四 花取王子社

『今宮登山道にある。雨乞王子から再び乳杉上の参道に出て、登ること約八百米、ちょっとした尾根の曲がり角がり、
そこが花取場王子である。(中略)仏者が管理していた頃、石鎚山の祭典に捧げる華(しきび)取った所と伝へられ

ている。今に香華の木がある。』(十亀和作著 旧跡三十六王子社より)


       
         尾根道を更に7分程進む              植林地帯を左に逸れる方角へ王子社指標あり

  
踏み跡に沿って思い切って樹林帯を左へ入る           すぐ前方にコンクリートの電柱が現れる

  
   雨乞王子社より10分位で今宮道に合流する                今宮道の標識

  
   笹が 現れるコーナーに王子社が見える             樒(しきみ)=花芝と王子社


                第十四 花取王子社

ウィキペディアによると『樒(シキミ・シキビ)は俗にハナノキ・ハナシバ・コウシバ・佛前草という。弘法大師が青蓮華の代用として
密教の御修法にお使いになられた。青蓮花は天竺の無熱池にあるとされその華に似ているので御佛前の供養用に使われた』
とある。毒が強い植物の為土葬の習慣があった昔、動物に遺骸を掘り起こされない様にお墓に植えられたとも言われている。


次の目標は「水場」だ。前回大きな木の下にある雪が解けて黒くなっていたのでおおよその見当が着く。砂漠でも山
でも飲み水は貴重だ。以前大川山〜竜王山縦走時命の水が切れて往生した経験がある。10時05分予想通り大木の
根元から水が流れ出ていた。


この辺りからつづれ折りの登りとなる。山道の雪が多くなり一人の登山者の足跡が先行して続いている。横に犬か狸
の足跡が続く。


10時13分右に曲がる広場に倒壊した家屋とその先に地蔵尊と王子社がある。手前に四角い石臼の様なものが置かれ
ているのは石灯籠の基礎部か?
 石室の後ろにはリアルな細身の地蔵尊が見える。これまでの王子社には地蔵尊は無
かったので何か特別に豪華な地の様な気がする。


第十五 矢倉王子社

『花取場王子から登る途中に岩の間から清水が流れ落ちている。今宮登山道では唯一の水飲場である。そこを過ぎて
凡そ三百米位にして矢倉王子に至る。大杉の元に石像が安置されている。石鎚山開祖石仙上人が初めて石鎚山に登り
神在りますことを明らかにせんと、久しくこの処に参籠し祈念したと云う。それは四手坂の藤原多郎左衛門氏方に、
石仙菩薩尊像記の古記録として残っている。(中略)夏山の季節には茶店が出された。』

(十亀和作著 旧跡三十六王子社より)

 
ここに出てくる「石仙上人」は森正史「山と信仰 石鎚山」において『寂仙は「石仙」と記している記録もあり、石鉄
山横峰寺縁起の石泉菩薩も同一人物とみて良い』と記している。
「日本霊異記」(882年頃、薬師寺の僧景戒による説話伝聞集)には寂仙が石鎚で修行し人々から菩薩と崇められて
おり、自分は死後28年目に国王の子として生まれ変わると予言したとある。
「文徳(もんとく)実録」(879年編纂)には神野(かみの)郡に灼然という高僧の弟子に上仙という山頂に住んで
修行する人がいて、彼が天皇になって再生することを予言して死去したと記されている。

つまり、石鎚山の現実的な開祖とされる奈良時代中期にいた「寂仙」=「上仙」=「石仙」=「石泉」は同一人物と
思われる。「上仙」は伊予国神野(かみの)郡、つまり新居浜の一宮(いっくのみや)出身で仏門に入って「寂仙上人」
となったらしい。我が郷土、新居浜ゆかりの人物である。

ついでにもう一人石鎚開山ゆかりの人物がいる。これも前出の森正史氏の本によると京都聖護院門跡系譜に、役の行者
5代目の弟子に香川県出身で「伊予の芳元」という人が753年頃大峰山で修行をして、石鎚山に熊野権現を勧請
(かんじょう)したと記されている。聖護院は天台宗派の本山修験宗の総本山であるから、当然石鎚開山は自分達の
グループが熊野権現を石鎚に分祀したから石鎚蔵王権現のルーツであると主張したと思われる。

一方「熊野権現御垂迹縁起」には熊野権現ははるばるインドから九州の彦山(英彦山)→四国の石鎚山→淡路島の譲羽を
へて熊野に鎮座されたと記されている。と言う事はわざわざ熊野権現を熊野から石鎚に勧請しなくても石鎚山の方が先
輩って訳じゃなかろうか。

矢倉王子がある場所は今宮道でも飛びっきりの展望所だったらしが今では植林の為何も見えない。

     
    今宮道の貴重だった水場          大木の右下から水が流れ落ちている

     
    今日の旅の友 足跡君          廃屋のコーナーに王子社がある


  第十五 矢倉王子    ここには細身のお地蔵さんが祀られている

  
    無残なごみとなっている廃屋         やっぱりお地蔵さんが加わると王子社が賑やかになる


女坂と言われる急な細尾根の登りになると右手の黒川谷を挟んだ向いの尾根が見える。成就社への傾斜が急な事をここで
思い知る事が出来る。さて、登山道を外れた場所にある次の山伏王子が後半の楽しみの一つだ。右手に王子社入り口の鉄
ポールがある筈なので見失わない様に注意して歩く。栂の大木を過ぎると10時45分「第十六 山伏王子社入り口」に
着く。


ここは目印がなければ全く見過ごしてしまう場所である。入り口を這い上がって初めて細尾根がここにある事がわかる。
タヌキの足跡に先導されて雪で滑りやすい細尾根を進むと突き当たりに王子社を発見。細尾根の絶壁上に五葉松の大木を
配した王子社の姿は感動ものだ。


雪を被った姿は見飽きる事はない。タヌキの足跡がこの絶壁に続いているので確かめると、五葉松の根元に洞(うろ)
がありそこを文字通り根城にしている様だ。


第十六 山伏王子社

『矢倉王子から参道を約一粁(キロ)登ると、栂の大きな自然木が枝を張っている。ここから小道を右に向って、尾根を
約二百米ほど行くと、岩山に森があり中に五葉松の大木がある。眼下は幾十丈の断涯(だんがい)で遥かに右下方に黒川
宿所が絵図の様に見え、真下に黒川登山道の行者堂を見下ろす。別当寺管理の頃、天台宗の各坊が石鎚登山に際し山伏等
此の行場で一夜籠もって、心を改め身を清めて登山したと言うが社殿の形跡はない。即ち(山に伏す)野宿の行場であろ
う。』
 (十亀和作著 旧跡三十六王子社より)


タヌキならいざ知らずこの行場での野宿には無理がある。恐らく天台宗の修験者は登山道近くまで帰って野宿をした事だ
ろう。細尾根からは成就社のスキー場と成就山が見える。まだそこまでは相当の高度差がある様だ。


    
   所々に自然林も見られる今宮道                  女人坂へ続く雪道

        
     大木があちこちにある                 山伏王子への入り口指標ポール

  
    細尾根が西に延びている                    細尾根の端が王子社となる  奥は絶壁


          第十六 山伏王子社   雪が似合ういい雰囲気です

         
         去りがたい場所でした               タヌキの住処になっている木の穴


先程から大きな声が登山道の方でする。足跡クン以外にもこんな場所を歩く人がいるのか? 10時58分登山道に
出てびっくり。何とマウンテンバイクの車輪跡が3台分下に向いて続いている。ロープウェイで持ち上がったのだろ
うか。確かにグッドアイデアには違いないが曲がり角で出会わなくて良かった。何分位で河口に着くのだろう?


雪の上に思いっきり付いたタイヤ跡を呆れながら眺めると、あれ? 直ぐ傍に次の王子社が見える。これが男社会の
悪の紋章「女人返し」の王子社だ。その昔、女性はここから先には進めなかったらしい。

大きな声では言えないが、男はどう転んでも女には勝てない。世の中の節理を求める修験者はこんな基本的な悟りを
開く事が出来ないのだろうか。確かに男にとって修行中、頭の中に女性が占める煩悩率は大きい。修行の邪魔になる
程女性は魅力的な存在ではあるのは確かだ。


一般的に男は家庭を顧みる事無く仕事や修行にとストイックになれる環境がある。一方子育てや台所を預かってきた
女性は現実的で忙しくそんな夢想にひたる暇など無い。不浄とか禁欲とかの理由で聖地から女性を遠ざける。男とは
勝手な動物である。
そんな自己反省をこめて10時58分登山道から一段上がった場所に祀られた女人返王子社に
日本男児を代表して深々と頭を下げる。


第十七 女人返王子社

『今宮登山道にある。山伏王子から元の道へ引返すと、前記の栂の大木の処が十米位横道になっている。そのすぐ上
が女人返しの王子である。(中略)
明治初年迄、女人はこの王子まで登り遥拝し之より上は登山を禁じた所と言う』
(十亀和作著 旧跡三十六王子社より)


石鎚山の神様、「石土毘古神」と伊曽野神社に祀られている「伊曽乃神」とは戸籍上の夫婦関係であり、仲良く石鎚
へ来た二人であった。夫神は自分はここから厳しい地に入り修行するので来年の今月今夜、この月の下で会おうと熱
い抱擁のチューをしてそう約束した。そして山頂から石を投げるからそれが落ちた場所に棲み家を建てて待つ様に告
げた。
約束の日にルンルン厚化粧した妻神はいそいそと(ここから伊曽乃神と名付けられた=エントツ山説)この地まで登
って来たが、その年は雪が深くて夫神は山から下りられず遂に再会はならなかったと言う。(意外と軟弱な神)
後の修験者はこんな話を元にこの地を以来女人返しの場所、女人結界の場としたのだろうか。


今宮道女人返しの場所はいかにも殺風景でこんな場所から石鎚や成就を拝む事が出来たのだろうか?ちなみに黒川道
の女人結界の地は行者堂辺りだったと言う。女人返しの場所的には黒川道に軍配が上がる。


  
   山伏尾根から見る成就山とスキー場            今宮道に出るとすぐ先にある女人返王子社


   女人返王子社     今宮道の左手にある  条件、状況的には矢倉休憩所あたりが女人返しの場所か?

11時10分スキー場のリフトに登山道が交差する。雪は沢山残っているがもうスキーの営業はしておらずゲレン
デを横切り向うに見える幅広い道へと出る。5分程進むと大きい建物があり、以前長崎あゆみ
HCと分かれて今宮道
に入った分岐に着いた。
スキー場が黒川道や今宮道を横切って建設された為、この古道はこの辺りで少し判りつらく
なっている。


分岐を左へ上がると11時25分奥前神寺に着き、ロープウェイから成就社へ続く道に合流した。奥前神寺は元々
今の成就社の場所にあったのだが、明治維新の受難=神仏離合政策、修験道禁止令に遭いここに細々と寺社を移した
ものだ。確かに今の奥前神寺の建物を見る限り里前神寺の様な風格はあまり感じられない。


7月1日から10日までの石鎚お山開きは現在石鎚神社がその主体となり三種のご神体(仁・智・勇)を本社から
成就社を経て頂上社へお祀りする神事が行われているが、前神寺でもこの期間「石鎚蔵王権現」三体を里前神寺から
この奥前神寺まで持ち上げ信者による盛大な仏事が行われる。


さて次は杖立王子社である。今まで何度もロープウェイから成就社を往復しているのだがこの王子社を見た様な見て
無い様な・・・人間の記憶とはアテにならないものだ。


左右に沢山垂れ下がったツララを眺めながら雪道を成就社へ向う。11時37分左手の高みにその王子社はあった
うんうん そう言えば確かに見たことある。杖立王子社に長い間気にも留めず失礼しましたと頭を下げる。



第十八 杖立王子社

『今宮参道上にある。成就社下の西之川へ下る三叉路の上の森にあって明治初年まで参詣者はお山杖をこの王子に立
ておき、勇気を振って無杖で登山するのを例としていた。沢山の杖がまちがわず一本として紛失する事がなかったと
云う』
(十亀和作著 旧跡三十六王子社より)

でも、石鎚山頂まで相当距離があるのにこんな場所に杖を置いて大丈夫だったのだろうか。恐らくここは成就社まで
のお参り人が杖を置いたのだろう。


      
   現代巡礼の利器 マウンテンバイク           スキー場のリフトが現れる

  
       スキー場を横切る                     今宮道は更に上側にあった様だ


   スキー場から雲に覆われた瓶ヶ森と右手に特徴のある子持ち権現が見える

  
     石鉄山修験道根本奥前神寺                    奥前神寺は普段誰も居ない

  
  参道にず〜〜っと垂れ下がったツララを見ながら歩く       西之川への分岐 (左にある尾根の向こう側)


         第十八 杖立王子社   初めてじっくりと拝見した


さて、次の鳥居坂王子社は登山道を外れる。赤いクレパスさんのブログで「第2園地入口から入る」と記されている。
成就社周辺はロープウェイで来る観光客の為に遊歩道を整備している。我々登山者はもっと石鎚の奥深い自然に入って
行く訳だからこんな場所に未だ踏み込んだ事はなかった。11時41分第2園地の標識を見つけて雪深い細道へ入って
行く。


笹と雪に抵抗されながら登っていくと巨木が配置されたなだらかなピークに着いた。想像以上に深山を感じされるに
十分な環境である。11時50分老木の下に鳥居坂王子社が見えた。昔はこちらがメインの登拝道だったのだろう。



第十九 鳥居坂王子社

『成就社東の山頂にある。明治の末期まで杖立王子から上へ登りついた山頂(現在の白石別館の上の方)鳥居があっ
た所である。今の成就社の神門はここより現在地に移転したがこの神門は文政天保の頃、別当前神寺と横峰寺が成就
社の境内争いをした時に、前神寺が建立したものと云う。』
(十亀和作著 旧跡三十六王子社より)


本来宗教とは個人の欲を絶ち究極の平和を求める筈のものである。これが人間が集まり教団組織になると話しが変わ
ってくる。江戸時代の中期、同じ石鎚蔵王大権現を崇拝する前神寺と横峰寺の間でこの場所の境界争いや別当権争い
が起こっている。心の平安や世界の平和を念ずる同じ宗教間でも、又違う宗教間でも争いが繰り返されて来た事は人
間の歴史が物語っている。


現在、宗教観の薄まりと共にノスタルジックな宗教イベントとして平和裏にお山大祭が行われている姿に不謹慎なが
らも安堵感があるのを隠せない。


  
次の王子社への入り口 参道の左手にある第ニ園地入り口       笹深い細道を少し登る

  
     想像以上に雰囲気が良い場所だ                 おっ 王子社の幟が見えた 

       
        古木の前に祀られた第十九 鳥居坂王子社   残念ながら鳥居は移設されている


それはそうと成就における横峰寺の立ち位置は一体どうなったんだろうかと想いながら、時代背景に翻弄された今日の
最終目的地である聖地「成就社」へと下る。
道なりに下ったつもりが旅館の裏手から鳥居の横に出た。成就社境内には
ロープウェイで来られた家族連れの声が響く。



石鎚成就は昔は「常住」と呼ばれた地で炭焼きの人が小屋に常住していたのだろうか。後に旧跡三十六王子社に於い
て解説される様に役の行者が修行中に行き詰まった際、ここで斧を研ぐ老人に会いその理由を問う。その老人曰く「こ
れを砥いでほんでの〜え〜針を作るんじゃけん」と。この言葉にハッとしてグッと来た役の行者は挫折を思いとどまり
修行を続け遂に念願が成就する。この語呂合わせから「常住」から「成就」と呼ばれる様になったと言う。この話しは
いかにも後世の作り話らしく写る。


私の場合登山の時は成就社では次のパターンで行動する。両側に並ぶ旅館の食堂やぶみやげもの屋の前を後ろめたい気
持ちで通りすぎる。鳥居を潜ってまず正面の本殿にお参りする。次に天気が良い場合は拝殿横に出て梢越しに石鎚を撮
影。次に拝殿で石鎚北壁の厳かな姿を拝み、ここでも窓越しの石鎚写真を取る。その後、出口にあるメガネをかけたヘン
な神主像を横目で見て門を潜る。

何とこのメガネを掛けた神主像が今回持ち歩いた本の著者「十亀和作宮司」その人だったのだ。今回はしげしげと像を
眺めて近くにいた福山から来た若者に記念写真まで撮ってもらう。ちょっと私の中でこの像に対する取り扱いが変わっ
てきた。


肝心の王子社であるが、いつも石鎚写真を取りに行く拝殿の横にあったのだ。大体がお寺や神社には沢山の社殿や石像
が乱立しておりどれが一体主役なのか存在感がボケてよく判らない。
「八大龍王社」の横にひっそりと今日の最終目的
「稚子宮鈴之巫王子社」があった。


第二十 稚子宮鈴之巫王子社

『海抜1450米の中宮成就社にある。本殿と並ぶ石標が王子である。古伝に石鎚山開祖、役の行者が、今宮の八郎兵
衛を道案内として、此所に登山し久しく参籠し池を掘り(宮川旅館裏にあり)毎日この池で禊(みそぎ)をして心身を
清め、石鎚大神の神霊を拝さんと祈願したが其の霊験なく、力つきて下山しようとした時白髪の老人が現はれ斧を砥石
で磨いているので、その故を問うと老人答えて曰く「之は砥いで針にするのだ」この言葉に感じ挫折してはならない、
成せばなると心に言い聞かせ再び行を続け石鎚大神の霊験を得て、石鎚山を開山し此所に帰り、(遥かにお山を見返し
、吾願い成就せり)と、仰ぎ拝したと云う。故を以って以来成就社と名づけられ、見返り遥拝殿の由緒でもある。』

(十亀和作著 旧跡三十六王子社より)



この本には王子社命名の由来は記されていない。なぜこんなに取って付けた様な名前が付けられたのか。大体この稚子
宮鈴之巫王子社の読み方はどうなんだろう「ちごのみやすずのみこおうじしゃ」でいいのだろうか。

稚子(ちし)幼な子の事現代はちごと読んでいいだろう。 は尊い人の敬称。は神道で神と人との間の交信時
に主巫が鳴らす効果的な道具
は(ふ)とか(なんなぎ)と読み、神を祀り神にら仕え神意を世俗の人々にひ伝える
役割をもった人の事で女性の場合は巫女(みこ、ふじょ)と言い男性は巫覡(ふげき)と呼ばれた。


これを纏めると鈴を持ち大神のお告げを伝える御子神ということか。いずれにしても石鎚大神を祀る神殿がある地に
わざわざ御子神を置く必要もなく、ここの王子社には王子石柱もない所から近世以降に取って付けた王子社の感は否め
ない。でも石鎚王子社巡りの中間点でキーステーションであるこの成就社に「八大龍王社」と並んで安置する意義が
王子信仰者にはあったのだろう。



  
   成就の第二園地から成就社へと下る             最後は大鳥居の横に出てしまった

  
八大龍王社  八大龍王はもともと法華経に登場する仏法を守護する天竜八部衆に属する竜族の八王の事。インドでは
ナーガという半身半蛇の姿をしていたのが中国、日本に伝わる時に竜に変わった。竜は水を支配出来る動物とされた事
から日本では水の神様とされる。

成就社では主役が沢山いるので肩身が狭い第八稚子宮鈴之巫王子社は八大龍王社の横にひっそりと祀られていた。


         成就社にある 第八稚子宮鈴之巫王子社

  
          拝殿の立派な天狗像               ここにも打出の小槌がある  真ん中が一番重い


                   何とか拝めた霊峰石鎚の姿


                    親近感が湧いた十亀和作像


時刻は丁度12時になり先程来、下界からのメッセージ(携帯電話)がしきりに交信されてくる。どうしてもお山を
下りて太平洋上を坂出に向けてやってくる
LNG船に交信する必要性に迫られた。帰りは現代魔法的移動術「ロープ
ウェイ」を使い仕事に復帰する。


  
    石鎚ロープウェイで一気に下界へ                    デポした車に帰る


石鎚王子社第七番から二十番まで退屈な今宮道もお蔭であっと言う間の旅であった。

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参考文献・資料
十亀和作著 「石鎚山 旧跡三十六王子社」
森 正史著 「山と信仰 石鎚山」
白石史朗著「大保木村の歴史」
ブログ赤いクレパス君の日記」

さて、次はいよいよ雪の消えかかった石鎚を目指し西之川から第二十一王子社をスタートする事になる。

  
  
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