石鎚三十六王子社巡りシリーズ   (その1)

平成24年3月10日 (土)  一の鳥居〜第一王子社〜第六王子社〜河口(こうぐち)


平成24年3月10日 第一王子社〜第六王子社道 及び 虎杖(いたづり)〜横峰寺ルートを歩


この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)を使用したものである 
前半:一の鳥居〜第一王子社〜第ニ王子社〜第三王子社〜第四王子社=第五王子社〜第六王子社〜河口
後半:虎杖(いたづり)〜モエ坂〜石鎚西遥拝所(星ヶ森)〜横峰寺〜極楽寺

プロローグ

修験者の山「石鎚山」と「王子社古道」

今まで故郷愛媛の山「石鎚山」には色んなルートで山頂を極めて来た。その中で西之川ルートや成就社ルート
に於いて王子社の祠に何度もお目にかかってきたし、蔵書「山と信仰・ 石鎚山」(森 正史著)で以前から
この三十六王子社の記述も読んでその存在は知っていた。


平成24年2月26日マーシーさんと今宮道を歩いた際、道の退屈さを慰めてくれたのがこの王子社であった。
そこでふと石鎚三十六王子社の所在に改めて興味を持って調べると、この今宮道でもその時に通っていない
場所にまだ王子社がある事がわかった。



石鎚山は「霊峰・石鎚山」と呼ばれる位だから奈良時代から修験道と関わりが深かったお山である。最初は
笹ヶ峰・瓶ヶ森・子持ち権現山辺りで始まった石土信仰は次第に石鎚山へと移行した様である。


森羅万象に神霊が宿るとした「古神道」は当然の如くこの厳しさや美しさ、神秘さを持った石鎚山そのものを
神奈備(かむなび)つまり神の住む聖域や磐座(いわくら)神の鎮座する大岩と考えるのは自然の流れだっ
た。


役行者(えんのぎょうじゃ=役小角えんのおづぬ)が石鎚開山の祖と言われているが、これは後世になって
各寺社が縁起を後付けする際に用いた全国的な傾向で伝聞の域を出ない。


平安時代になって日本古来の自然崇拝「古神道」に仏教の教義を持ち込んで修験道を不動のものに築き上げた
のが山岳仏教「密教」である。ここに於いて「修験道」は神仏混淆(こんこう)、神仏習合による日本独自の
山岳宗教として深く根付いていくのである。


特に石鎚山においては修験道のカリスマになった役の行者と共に、地元四国が誇る宗教界のエリート「空海」
(弘法大師)が修行をされた地として石鎚信仰の拠り所となった「石鎚神社」「前神寺」「極楽寺」「横峰寺」
の縁起に登場する。

当然その頃には「王子社」というものは未だ存在せず、これは石鎚登拝が一般庶民の間に広まった江戸時代
以降の産物と考えられる。小松や西条から石鎚山頂へ到る長い参拝道には、それを案内する「先達」(せんだつ)
というツアーガイドが存在し、経験豊かな修験者がこの任に当った。但し石鎚三十六王子社はこの内西条藩に
属する前神寺・極楽寺に認められた先達によって設置されたと思われる。その根拠は小松藩に所属する横峰寺
から虎杖(いたづり)を経て成就へ到る「横峰・モエ坂道」や「黒川道」の参拝道にはこの王子社は皆無で
ある事から想像される。



王子社」とは登拝する途中の長く険しい道中でその目標や休憩をする為に設けられた祠の様な物で、そこで
旅の安全を祈願する儀礼を行った場所である。王子の意味は深山に分け入って修行を行う修験者を守る神仏は
童子の姿で現れるという修験道思想から来ており、山頂にいる大神様の御子神という訳である。


熊野に於いては平安時代に皇族や貴族が競って熊野詣を行った為、このブームに乗っかって途中にある神社など
を休憩所や食事所、宿泊所として九十九王子社が量産されたと言う。



石鎚山に於いては食事所、宿泊所として「細野集落」、「河口」(こうぐち)、「黒川集落」、「今宮集落」、
「成就(常住)」が存在したので、その道すがらに36の王子社を設けて先達を中心にここで安全祈願や休憩、
行動食を取ったものと思われる。尚成就には宿泊所が足りず、手前の矢倉王子社の辺りや炭焼き小屋(白石旅館
の前身)などにも宿泊した様である。


石鎚山ゆかりの別当寺により組織された石鎚巡礼講はそれぞれ認可された「先達」によって引率されたが、交通
機関の発達は次第に素朴な自然崇拝宗教の様相を一変させる。


昭和6年西条〜河口間にバスが開通し、ここまでの参拝道があまり使われなくなった。それでも河口を基点とし
て今宮や黒川の部落では登拝者の為に臨時の宿屋が賑わった。


しかし昭和43年石鎚ロープウェイが西ノ谷から成就社へ開通し、面河関門から土小屋までの石鎚スカイライン
が昭和45年に完成してからは殆どの参拝者はバスかマイカーで登拝する様になり「古道ツアーガイドとしての
先達」や「今宮部落」「黒川部落」の役割りに終わりを告げた。


人間は一度楽を知ると元には戻れぬ習性がある。文明の発達は便利さを加速させ、過去を急速に消し去って行く。
登山を通じて石鎚山と関わった者としてこの石鎚登拝の歴史を刻んだ王子社道を訪ね歩くのも又意義があると
考えた。

 

第1部:石鎚三十六王子社を巡る

第一 福王子社    西条市黒瀬字上之原
第二 桧王子社    西条市大保木字大桧
第三 大保木王子社  西条市大保木字覗
第四 鞘掛王子社   西条市中奥字千野々
第五 細野王子社   西条市中奥字細野
第六 子安場王子社  西条市中奥字細野


さて前置きが長くなったが、平成24年3月10日(土)石鎚神社にて十亀和作著「石鎚山・旧跡三十六王子社」
(千円)を購入し第一王子社から河口の第六王子社まで歩く事にする。


河口(こうぐち)から又県道12号線を車まで引き返すのもいかにも中途半端。帰り道に虎杖(いたづり)から
モエ坂、「石鎚・西遥拝所」=星ヶ森を経由し横峰寺に出て、ここから東へ向う地図上の点線を辿って車を置く
極楽寺近辺へ周回しようと計画した。


虎杖から横峰寺への古道は現在通行止めだし、横峰寺から極楽寺まではまともな道は無さそうだ。いつもながら
厄介な場所に身を置きたがる自分の発想に呆れる。


第一福王子社〜第二桧王子社 位置図

     
     この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)を使用したものである 
     カシミールソフトを使用したGPStラックログ図  一の鳥居〜第一王子社〜第二王子社〜極楽寺

08時00分開館の石鎚神社(西条)の社務所に着き美人で笑顔が素敵な巫女さんから三十六王子社の本を
買う。著者「十亀和作」氏はここの元宮司を務められた方でメガネをかけた銅像を成就社で見たことがある。

この本は最初の27頁が著者による各王子社の解説があり、その後は石鎚神社元老顧問という凄い肩書を持つ
真鍋充親氏による随行記と王子社考、後半分は巡礼者の名簿や石殿の写真と奉納者などが記されている。
石鎚三十六王子社についての資料は極めて少なく、今から40年前にここを現地調査した貴重な書物である。



 石鎚山  旧跡三十六王子社   千円  石鎚神社 の本社で美人の巫女さんから購入した

初めて訪れる石鎚神社の口ノ宮本社に参拝。さすが立派な神社である。石段には付け替えした3ノ鎖が手摺に
下げられていた。本に付録地図が添付されているが、こんな地図を頼りに行ける筈もなく事前にここをマニア
ックに歩かれている「赤いクレパス」さんのHPでデータを仕入れていた。 
赤いクレパス君の日記 石鎚王子社1〜6は ここ


08時15分神社を出発し、11号線を西へ少し進み信号を左折して黒瀬ダムへ抜ける車道(県道142号線
=石鎚伊予小松停車場線)へと進む。


08時40分黒瀬ダムへ出る手前の狭い道で「一の鳥居」を潜る。近くに数軒の民家が並んでいるがどうも皆
空家の様である。広場に車を停めて近寄ると「一の鳥居」と刻まれた石塔が脇に立っていた。切り通しを抜け
ると石鎚ロープウェイへの県道12号線=西条久万線に合流。この三叉路付近が「黒瀬峠」と呼ばれた場所だ
が今は黒瀬ダムの建設により道が整備され、付近の風景も随分変遷しているので峠の面影は感じられない。


 
石鎚神社 明治政府の神仏分離政策や修験道禁止令    「三之鎖掛替付旧鎖此処ニ奉懸ス」と刻まれている
により石鎚山はこの石鎚神社の管轄となった      つまり三の鎖を掛け替えてその古い鎖をここの手摺に置いてある

     
  黒瀬峠に出る前の細い車道に一の鳥居がある              一の鳥居 記念石碑

鳥居や注連縄(しめなわ)は神の世界と人間の世界の分かれ目、すなわち「結界」を示す。ここから石鎚大神の聖域に入る。


この出合いを山側へ右折すると直ぐに60番札所「横峰寺」へ行く右手の「平野林道」へ上がって行く。(石鎚ロープ
ウェイ方面へは進まず、右手斜めに延びる細い舗装道路へと上がる)


道なりに進むと08時45分バスの停留所になっている広場があり、その奥に「京屋旅館」のみやげ物売り場がある。
道路を挟んだすぐ右手に「第一福王子社」があった。


石段の上に竹薮がありその前に小さなお堂が見える。お堂の中には右手に杖を持ち右足を横に組み、左手の平を托鉢
の様に上を向けて威厳のあるお地蔵さんが祀られており、その前には王子社を示す石殿が置かれている。お堂の右外
には千手十一面観音が雨ざらしで据えられていた。


第一福王子社

『昔石仙高僧が石鎚山登山しようとして、ここに来たり遥かに石鎚大神を拝し、一夜を野宿した。その時夢枕に福の神
が現はれ、願望達成を示され一心に祈願をしたと伝へられる。世人福の字をとりて福王子と唱う。』 
(旧跡三十六王子社より)


記念すべき王子社巡りの一番目へのお参りを終えて気分も落ち着いたので京屋旅館の土産物売り場に入り200円の
セルフコーヒーを飲む。ご主人は私と同じ年配の方で昔の忙しかった時の話や先達さんが歳を取り亡くなったり、残
った人も今はお山巡りではなく病院巡りをしているという時代の流れを語った。

横峰寺へは大型バスは通行出来ないのでこの広場で小型バスに乗り換える為観光バスの待合所にもなっている様である。
京屋旅館には飼い犬が2匹いるらしいがどこかへ出かけており、近くの飼い犬や野良犬がどこからともなく参拝者から
のお布施を目当てに沢山集まって来る。
興味深い話しも聞きたいが長居も出来ないので次の目的地に向う。

 
  県道12号線から横峰寺へ右折する       すぐにバス停留所と京屋旅館の土産物売り場がある

 
京屋旅館の土産物売り場の右手に第一福王子社がある  これが各王子社を表す「石殿」と言うもの


   竹藪をバックに石段がありその上に大きなお地蔵様の祠がある。 これが第一福王子社だ

    

   大柄で穏やかな表情の福地蔵さん          隣に祀られている千手十一面観音

道路から左手には黒瀬湖が見え山間には薄く霧が立ち込め長閑な風景を作っている。

09時10分橋を渡ると三叉路になっており右手は横峰寺へ、ここは左手の極楽寺方面へ進む。山側には石垣
が積まれて畑や住居跡が残っている。
暗い杉林や竹林を抜けると広葉樹の大木があり道が右にカーブしている。

09時18分右手の石垣近くに王子社のポールが立ち上に祠が見える。カーブを曲がった場所に地元の車が駐
車しておりその前に車を停めるスペースがあった。
苔生した古い石段を上がると左手前に「第二桧王子社」と
刻まれた細長い石柱が立っていた。


やはりここにもお堂が建てられており、中には第一王子と良く似たお地蔵さんが蓮に座っていた。手は大きな
前掛けに隠れて見えない。お堂の左外には王子社を示す石殿が置かれている。


第二桧王子社

『昔左甚五郎が成就社本殿の建築を終り、用材の桧を杖にして茲(ここ)に下山休息した。その時杖を地に突き
立てて帰った。其の杖が芽を出し成長し、大木となり真径お凡そ二米もあったと云う。何時の世にか伐採し今に
其の切株がある。逆杖であったため木の枝がみな逆枝であったと云い伝えられている。その大桧があったので地名
を大桧と云い、桧王子と唱えている』(旧跡三十六王子社より)


この鎮守の森には常緑広葉樹の大木が茂っており、なだらかな傾斜地には石垣で区分けされた綺麗な畑が広がり
その中を最上部にある家(空き家)に向って年期の入った石畳道が延びている。畑には榊(さかき)か樒(しきみ)
の様な物を栽培しているようだ。


車に帰って先へ進むと、直ぐに道は二手に別れている。左の竹薮へ下がる道が「極楽寺」方面とある。進路を左
に取り竹薮を抜けると09時30分大保木小学校跡地の広場に出た。

何かの工事中らしく作業員が居られた。週末に働いている人に負い目を感じながら会釈を送り、ぬかるんだ広場を
抜けて石垣で補強された住居や畑の間を進むと09時40分極楽寺に突き当たる。左下の駐車場に延びた道へ下が
り一旦お寺の駐車場に車を停めるが、帰りが何時になるかかわらないので迷惑を考えてそのまま道を行き止まり
まで進む。


ここに小型のブルドーザーが止められており、道の改修工事を行っている様子だが今日は作業はやってない様だった。
邪魔にならない場所に駐車をしてここからは歩く事にする。


  
    黒瀬ダム湖を左に見て進む               橋の向こうが極楽寺(左)と横峰寺(右)の分岐になっている
                                     ここを左折する

  
    石垣が綺麗に積まれた道が続く           竹藪や植林を抜けると右にカーブする場所に第2桧王子がある


                        第二桧王子社

         
  この石柱も王子社のシンボルだ                 蓮に座った「桧の地蔵」

        
   第二桧王子社への苔むした石段            王子社の裏手には石畳と古いモノレールが続く

  
竹林の分岐  ここは極楽寺の標識がある左下に進む      大保木小学校跡地  ここを抜けて行く

  
極楽寺手前の道路横石垣 後に横峰寺からここに下りてきた   極楽寺を越して行き止まりに車を停める


石鎚王子社 第三大保木王子社、第四鞘掛王子社、第五細野王子社、第六子安場王子社の位置図


この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)を使用したものである 
カシミールソフトを使用したGPStラックログ図  極楽寺〜第三王子社〜第六王子社〜河口(こうぐち)

西条で寄ったいつものコンビニで買った弁当とペットボトルをザックに詰めてライトを確認して杖無しで出発。この時
うかつにも手袋を持って行くのを忘れてしまった。


直ぐに右手に細い道が現れるが銀納義民「高橋平左衛門の墓」を示す白い看板と矢印に沿って道なりに真っ直ぐ進む。
(銀納義民については後述)又すぐに右手に細い道が現れるがそこも真っ直ぐ進む。09時46分義民・高橋さんのお墓
へ導く分岐が右上に伸びるが、ここも頑固一徹道なりに真っ直ぐ進む。王子社標識もこの方向に見られる。


09時50分植林地帯に入ると直ぐに住友共電大保木線5番→4番の鉄塔保線路鉄柱が置かれた右上への分岐がある。
そちらに向って王子社への道しるべもあるのでここは指標に従って右上に進む。


細い山道を抜け大岩を過ぎると植林の中に少し広場があり09時55分右手に王子社の祠が現れた。

第三大保木王子社(覗の王子)

『大保木字覗にあり、此の王子は大保木分であるが、千野々天台宗派仙徳寺の真上約百米、見るからに断崖絶壁今にも
岩石崩れ落ちんばかりの感があり、旧参道のほとりにて、のぞきの王子とも称し石の地蔵が祀ってある。(中略)昔松山
藩主が領内の山林面河山取調の際この山に入り、東之川のお樽の滝(白糸の滝とも云う)を見物した。西之川庄屋高須賀
蔵人が藩主を歓迎してもてなした。藩主は大いに満足し蔵人を召し出し、其の望を問われ蔵人が曰く、石鎚の神には表境
内はあれども(昔は成就から奥は全山表境内であった)裏境内がないので、面河山全部の寄進を願い出た処、藩主驚き蔵人
を殺害しようと計り、大保木の庄屋へ召しだした。蔵人はこの大保木王子に来て、石鎚大神に祈願し、抜いた刀を石に突
き差し、願意成就を祈り大望を達したと謂う。石の各所に刀を差し込んだ跡がある。』(旧跡三十六王子社より)


祠の中には三界万霊のお地蔵さんが祀られており、左側には王子社を表す石塔と石殿がある。王子をお祀りしている場所
は平和そうなのだが、左手反対側が垂直に切れ落ちており加茂川が直接上から見える。対岸には学校跡のグランドが見え、
少し上流には「千野々橋」の赤い鉄橋が架かっている。



  
  白い「高橋平左衛門の墓」に従って直進         ここも白い「高橋平左衛門の墓」に従って直進(右へ上がらない)

  
        石鎚三十六王子道の看板             ここで「高橋平左衛門の墓」標識と別れて直進する

  
ここで初めて右手の住友共同電力鉄塔保線路に入る           大岩を通過

  
    広場の右側に王子社が現れた                    大保木王子社の石殿


    第三大保木王子社   左から王子社石柱、王子社石殿 そして三界万霊地蔵の祠が並んでいる

 
   左手は加茂川と千野々集落が真下に見える        虎ロープがある坂を次の王子社へと下る

大保木王子社は覗きの行場らしく大岩の崖があり、落石防止ワイヤーでネット状に縛られている。虎ロープに従い
大岩の右側を下り振り替えると岩は今にも落下しそうな雰囲気がある。参道は右手に迂回して先に続く。


10時06分ザレ場を下ると三叉路となっており左手に住友共同電力の鉄標、右手に王子社を示す鉄柱がある。
その分岐を少し右へ進むと10時10分大岩の下に第四鞘掛王子社があった。断崖絶壁の真下に石塔、小ぶりな
お地蔵さん、石社が仲良く寄り添っている。


第四鞘掛(さやかけ)王子社

『中奥字千野々ある。第三王子の項でも述べた通り、西之川庄屋高須賀蔵人が松山藩主の召に応じ大保木の庄屋に
出頭する時、藩主の計略をさとり、ここで刀を抜き一命を堵けて石鎚大神に祈り、鞘のみ木の枝に掛け覚悟を決め
て出頭したので、鞘掛の王子と云い伝えられる』(旧跡三十六王子社より)

大岩に神が宿ると云う太古からの自然宗教観はこの天を突く大岩を見上げていると何だかわかる様な気がした。
バランス良く配された石像トリオに手を合わせ、先ほどの三叉路まで引き返して鉄塔保線路を左下へ下る。10時
17分県道の金網の横から12号線の舗装道路に出る。


王子社を逆行する発想は無いらしく、この出口には王子社を暗示する標識は一切見られなかった。

 
今にも落ちそうな大保木王子社近くの崖を見ながら下る   ガレ場を下がるとこのような三叉路になっている
                                     左は電力保線路鉄識、右には王子社指標鉄柱

       
   三叉路の右手を下がると第四鞘掛王子社がある            西洋人みたいな王子像

       
       大岩の下に仲良く寄り添う王子社石柱、お地蔵さま、石殿

 
鉄塔保線路に戻りこれを下がると県道12号線に出る     県道に下りると待っている「猫王子」


細野集落へ向かう

さて、ここから暫くは広々とした加茂川沿いの退屈な車道歩きが待っている。赤い橋(千野々橋)は大正14年完成の
トラス橋で建設時、鉄材は溶接ではなくリベットで接がれている。その後補修工事もされているので状態は良い。昔この
辺りが戦場となり流血で赤く染まった処から千(血)野々呼ばれたらしいが、そんな謂われを思うとこの橋の色も生々
しく感じる。この橋は渡らなくても良いのだが、退屈なので対岸の旧道へと進む。


そこには「大元(おおもと)神社」がありお参りをする間ずっと近くの飼い犬に吠えられた。この神社は元々「大本神社」
だったのを明治12年神社明細帳を提出の際「大元神社
」と変更された経緯から「だいげん」ではなく「おおもと」と
読むのが正しい様である。
現在は石鎚神社の管轄になっている。

旧道を進み又12号線に出ると先ほど挨拶をした軽トラックが停まっており、おじいさんが「どこまで行きょん。乗せて
行ったげろか」と待っていてくれた。恐縮しながら王子社遍路歩きを説明し、おじいさんに謝意を述べて更に進む。


マーシーさんと二人で車道歩きの時は一度も車が我々の為に停まった事は無い。藪歩きのボロボロ、ヨレヨレ状態がその
理由とは思うが、今日は一緒に歩く神仏のオーラかな。



銀納義民とは」

左手に「治平堂」の標識がある。いつも車で走っているとこんな標識や王子社標識など目に留まらない。

「治平堂」に祀られている工藤治平(治兵衛)は江戸時代初期この地区(中奥)の庄屋さんで、当時山深いこの辺りの
生計は主に林業や仲持ちによる現金収入に頼っていた。その為年貢をお米で払う事が難しく少ない収入の中からお米を
買ってその中から年貢米を納めていた。おりしも米価が暴騰し村民は年貢米を買う事が出来ず、困り果て庄屋工藤治平が
中心になり年貢を銀で支払う事を1664年西条藩に直訴した。


「西条藩」は当初伊予の河野家の流れを汲む「一柳(ひとつやなぎ)直盛」が1636年6万8千石を与えられたのだが、
入封の途中で病死してしまう。そこで長男「直重」が3万石分を継ぐ事になる。
(その時3男の「直頼」が小松藩1万石を継ぐ事になり小松藩は一柳家による藩政が幕末まで続いた。)


この1664年頃は西条藩主は直重の嫡子「直興」の時代で、この藩主は少し問題がある人らしくどうも藩政が乱れて
いた時期であった様である。
この西条藩混乱期に運悪く直訴をした工藤治平を代表とする直訴団は西条藩により16名
が処刑されてしまう悲劇が起こった。


翌年、一柳家の西条藩は参勤交代の遅参、御所造営の職務怠慢やこの騒動を含む失政を理由に改易となり跡継ぎの問題
などもあり5年程、松山藩預かりの「天領」となってしまうのである。


その後、1670年に西条藩は紀州家の松平頼純(よりずみ)が藩主となり、数年後この年貢の銀納が新しい藩政の元
で認められる事となる。この地域の人はそれ以来、年貢の銀納に命を賭して尽力した人々を「銀納義民」として篤く
祀っている。(義民堂の建設、義民祭など)

先に極楽寺近くにあった「高橋平左衛門(の墓)」もこの時の処刑を間逃れたが銀納達成に尽力した義民らしい。
この様な悲劇は昔から繰り返されており、今の裁判制度の下色々問題はあるものの我々は良い時代に生きていると思わ
ざるを得ない。


山あいの小さな歴史に思いを馳せながら歩いていると、西条藩主松平依頼純公お手植えの杉が2本あると言う「古長河
内神社」(そながかわうちじんじゃ)があり、その向こうの道路が広くなっている。
10時44分 道が広がった場所
にある「淀バス停」を通過する。


  
    大正14年完成の千野々橋 別名赤橋             大元(おおもと)神社

  
     左手の石垣に何か標識があるぞ             工藤治平の墓  治平堂へ の標識がある

  
  「古長河内神社」現在石鎚神社が管理             細野集落へのチェックポイント 淀バス亭

10時47分やっと「細野集落分岐」に到着。分岐には四国電力の連絡板があり、横に王子社への指標鉄柱が立っている。
普通車なら通れる広さの舗装道路を左手に上がっていく。


11時00分左手に大きくカーブする両側に石垣があり、右手には四国電力の保線路鉄杭と王子社の道標がある。そこから
お地蔵さんが置かれたこの細い道に入る。どうもこの道は舗装道路をショートカットする路地である。石垣やお墓がある細
い石組みの小道を上に進むと直ぐに上側の舗装道路に合流した。その小道は更に道路を横切って上に向って続いているが、
ここでは舗装道路に沿って右へ曲がる。

11時03分直ぐに今度は右斜め下へ向う小道があるのでそこへ入る。ここにある車の反射板鉄柱に王子社への矢印が右に
向いて掛けられており、青い王子社標識も右の小路へと誘う。左側の石垣の上には杉、右手は低木常緑樹となっている。

道路から右の小道に入ると
11時05分一軒の廃屋がありその前を通り過ぎると植林地帯となる。左上を眺めると果樹園の
跡がありその上には先ほど歩いていた道路の白いガードレールが見える。歩いている小道には四国電力「南予幹線」のL型
鉄柱があるのでここは鉄塔保線路だ。

この当りから道が細くなり荒れ気味となる。地盤が弱い様で少し沢が崩壊気味の場所があり、虎ロープが張られそこを下る。
11時13分更に大きな崩壊地が現れるが木の階段と丸木橋でちゃんと整備されている。これも鉄塔保線路としての恩恵だ。
11時17分左手にお地蔵さんが祀られている場所を通過。


11時21分眼前にテープが張られて通せんぼをしている。その先が崩壊しており、ここはすぐ左上に木道の迂回路が設け
られていた。
この辺りは右手がスッパリ切れ落ちて崖となっている厳しい地形だ。11時25分前方に広場がありやっと次の
王子社が見えた。

大きな岩板に灯篭の様な石塔に首から上の石像が無造作に置かれて、この「首地蔵」の横に王子社「石殿」が並ぶ。その岩板
の右側に王子社の石柱が立っている。近くに四角い石や丸い石が置かれているのでおそらくこの首地蔵の石塔は一旦崩れた物
をバラバラにまとめて置いたのだろう。


第五細野王子社

『中奥字細野にある。(中略)細野には黒門と云って石鎚名物の肉桂(にっき)販売の老舗があったが、今は淋しく屋敷のみ
残っている。(迫割禅定があった場所から)二百米ほど行くと、小高い森があり石の祠がある。その中に頭だけの地蔵が祀っ
てある。之が細野王子社である。(中略)北には河口の下の片マンプの岩上、屏風の如く、南には高さ二百米もあらう大岳が
峨々とそびえ、仰ぎ見るとまさに倒れかからんばかり、之を王子の嶽と云う。』 
(旧跡三十六王子社より)

なる程、そう言えば私が小さい頃先代のタケ婆さんが親父やお袋と石鎚に登り、そのお土産に輪になったニッキ(肉桂)の根
をくれた。今で言うシナモンだ。このクスノキ科の木の皮は当時おやつなども余り何も無い時期だから喜んで口の中で噛んで
刺激を楽しんでいたものだった。石鎚土産のニッキは今無いのだろうか。


先ほどから細い雨が降り出したが天気予報を信じて雨合羽は持って来ていない。ここの雰囲気がとても良かったので天気の様
子見も兼ねて雨の落ちない木の下で昼食を取る。昼食と言ってもカップラーメンに山専ボトルのお湯を注ぐだけなのだが・・・



  
県道12号線から細野集落への分岐 (ここを左に上がる)   分岐にある目印  王子社指標ポールも立っている

  
          廃屋も多く見られる                ショートカット道への分岐  正面の石垣を上がる

  
石垣を上がる場所には電力鉄杭と王子社への道しるべあり   この小道を上側の舗装道路へと進む

  
歩道道路に出ると更に小道は上に延びているが、舗装道路に沿って進む。 すると直ぐに右手に小道がありこれを入る

  
   廃屋がありこの前を素通りする                  道が荒れだし木道で補修されている

  
       お地蔵さんを通過                  更に崩壊地があり左に迂回して木道が付けられている

  
木々の間から谷間と山筋が見える 右手は崖で切れ落ちている地形   奥に王子社が見えた


              第五細野王子社    右の石灯籠が倒れていた

   
    首地蔵  もともとこんな造りだったのかなあ?           第五細野王子社の石殿

   
辺りには古木があり森の雰囲気を漂わせる       王子社の裏側は岩尾根となっていた

第五細野王子社で休憩の後、11時47分今日最後の王子社へ向って山を下る。崖に沿って急な傾斜を下ると細い
ネットが谷側に敷設されているがいかにも頼りない。
その後沢に沿ってガレ場を下るのだが、ここは崩落防止に
石垣が間隔をあけて組まれており、それに沿って慎重に下っていく。

後述する様に旧跡三十六王子社本には西条誌によると昔はこの辺りに鎖が掛けられており、後に道を作り直し不要
になったその鎖を石鎚山の一の鎖へ移したと記されている。

このガレ場を下ると蔦の根が絡まった大岩を左に見ながら参道が続く。細い植林を進むと11時57分
奥に王子社が見えた。

ウバメガシの様な樹などを配して正面に苔の生えた大岩が構え、その平たい面の中央に何か玉の様な物をッ抱えた
石仏坐像、その右手に石彫像と王子社の石社、大岩の右側には赤い布を巻かれた王子石柱が置かれている。


第六子安場王子社

『中奥字細野にある。細野王子から直ぐ急な下り坂にかかる。坂と云うより嶽と云うのが適当の様である。昔は此
の所に鎖がかかっていたが、後世道を作り少し歩み易くなったので、その鎖を弥山(今の石鎚山一の鎖)へ移した
と西条誌に記してある。(中略)この王子の真下が登山口の河口であり、石の突端に立ちて見下ろすと千尋の谷、
後をふり向くと王子の嶽が立ちふさがり、実にたけだけしい感じである。(中略)この王子は元結掛(もつといかけ)
王子とも云い、又細野覗とも云う。明治維新以前は土地の児童等ここで、初登山の者に対し鋏で元結を切り三文乃至
五文の料金を申受けるのを例としていた。その子供達が「新客や元結払い南無三宝六王子」と唱えて切った元結を
松の木にかけて、登拝の無事を祈ったと云う処から子安場と云い伝えられる。』
(旧跡三十六王子社より)

奥が覗行場になっておりシダの仲間「ヒトツバ」が茂る岩場から下を覗くと三碧橋と河口の住居跡が見える。ここ
から足場の悪い急坂を下る。崖にはロープが張られており注意深く下降する。最後は本来の登山道が崩壊している
のでロープの敷設された石垣を伝って12時13分下の広い廃道に下り着く。

 
第五王子社から右下に続く道を第六王子社へ向かう    沢部のガレ場を下るルートになっている

  
振り返ると石垣の様に組まれたガレ場    そこを抜けると綺麗な道が続く


      今日最後に訪れる「第六子安場王子社」


    一般的な王子社のセット  石仏、王子社石殿  王子社石柱

  
  第五子安場王子社 石殿               タイプの違った石像が2体大岩に坐している

  
ありゃ〜 岩に生えるヒトツバの下には河口(こうぐち) ザレ場には虎ロープが張られている
が真下に見える   

石垣をロープ伝いに滑り降りると旧道の右手には二つの見事な手彫りトンネル(河口4号、3号隧道)がある。現役の手彫り
トンネルは瓶ヶ森林道、稲叢山への林道、高瀑林道にも見られるが、この苦労して掘った手彫りトンネルは今では無用となり、
道徳心のない人間によって粗大ゴミ捨て場と化していた。暗いトンネルを抜けた所が県道12号線の三碧橋だった。


  
最後は下の旧道にガレ場を伝って石垣を下りる         手掘りのトンネルが二つ連なっている


旧道にある河口4号隧道と向こうに河口3号隧道 (共に大正13年完成) 現在は使用されっていない

 
   手掘りトンネルを抜けると三碧橋北詰めだった           三碧橋を渡る

三碧橋を渡り河口(こうぐち)の石鎚旧登山口に到着。旧旅館街を抜けて本日の石鎚三十六社巡りの締め括りとして
横峰寺別院にお参りする。2004年の台風21号で西条側から車で横峰寺へ至る平野林道が崩壊し不通になった際
翌年の復旧までここまでお大師さんが降りてきて仮納経をした場所なのだ。


       
 横峰寺別院の裏手に旧黒川道への巡礼道があった          石鉄山横峰地別院  誰も居ない 

ここで本日の石鎚三十六王子社巡り(1番から6番まで)を無事終了する。今日の旅はまだ後半があるのだが、この
石鎚三十六王子社の1番から6番まで歩いてみて何故か充実感がある。それは石鎚について登山だけでなく先人の
登拝に少しだけ触れた旅であった気がする。同時に残りの王子社を歩く意欲が沸々と湧いてきたのである。



グランマー啓子さんの石鎚三十六王子社 1番〜6番は  ここ

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参考文献・資料
十亀和作著 「石鎚山 旧跡三十六王子社」
森 正史著 「山と信仰 石鎚山」
白石史朗著「大保木村の歴史」
ブログ赤いクレパス君の日記」


第2部では現在通行止めになっている虎杖(いたづり)〜モエ坂〜横峰寺 登拝道の最新情報をレポします。


  
  
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