望郷シリーズ  投稿「高嶺フラワーズ」 エントツ山から見えてくるもの 平成16年2月1日
          付録: 「犬でもわかる銅山峰 解説」  半永久保存版

ハーイ 皆さん 高嶺フラワーズ久々の登場です。このところ「しまなみフラワーズ」のパワーに押されぎみですが私たちもお忘れなく 
って事で今日は私達の体力英知美貌をフルに活用しまして渾身のエントツ山レポートをお送り致します。

 
      新田橋から見たエントツ山  奥に串ヶ峰と西赤石)
      
平成16年2月1日(日) 1100時山根運動公園に集合し、私たちの育った新居浜(上部地区)のシンボル「エントツ山」に登り、
別子銅山記念館、大山積神社、下部鉄道跡、山根収銅所などを徘徊しながら銅山峰について高嶺バスガイドが御案内いたします。
発車オーライ (古〜〜う)

   
     エントツ山から東平(とうなる)への銅の道 及び旧別子 位置図

この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)を使用したものです。
   (承認番号 平15総使、第634号)

私たちのリーダ シェルパ原さんがHPのタイトルにしている「エントツ山」は高速道路新居浜インターをおりて西側の山根運動公園
南側に小さくそびえています。
登り口はこの運動公園を国領川に沿ってすこし上がると朱色の生子(しょうじ)橋があり、その近くの左側にあります。

  
   山根運動公園・グラウンド     山根運動公園の上にあるライオンズの庭
 山根グラウンドは昭和3年に作られました  私たちはライオンではなくってよ

    
    かつてここには 上写真のような大規模な新田社宅がありました
 左が山根グランド、 右の煙突に煙は大浴場 この休憩所に当時珍しい
 テレビが有ったので朝潮、若乃花、栃錦などの相撲を見ました(それ誰?)

   
 橋のたもとにある精錬夫像    生子橋の対岸が内宮神社(太鼓台の宮入りがある

                
                    エントツ山登山口           

 
 せかせか隊長や登山ロボットがいないとゆったり歩けるわねえ  ダラダラ

      
これは記念撮影のカメラをセットしている図    18mのレンガ作りのエントツ
えらいローアングルになっています         百年以上立っているんです

この「エントツ」は銅の製錬と硫酸製造、製鉄事業を目的に明治21年に建設された「山根製錬所」の排煙設備として作られました。
ところが亜硫酸ガスによる農作物への被害や別子銅山の鉱石に含まれる銑鉄は製鋼には適さないなどの理由で明治27年に休業、
翌年には廃止という短命な運命にありました。でもこの赤レンガ作りのエントツだけは残されこの地域のシンボルとなっています。

     
                現在のエントツ山

     
     明治20年台のエントツ山  エントツまで60mの煙道が見られる

 
エントツ山より角野小学校方面       昭和10年頃の角野小学校付近

     
              エントツ山より国領川


今回初めて登った「チャリンコ・ジオス秀」の為にゆっくりと山頂で過ごした後、南側のエントツ山通(つう)にしか知られていない細くて
急な下山道から下りて生子橋まで帰りました。エントツ山から霞んでいましたが串が峰も綺麗に見えました。その後、橋を渡り西側に
ある「内宮神社」へ。ここは原隊長の「太鼓台も山に登る」での紹介の通り太鼓台が宮参りに登ってくるので有名でしたね。
参道の途中にはかつて端出場(はでば)から惣開(そうびらき)までの別子鉱山鉄道下部線跡が横切っています。
     
      エントツ山より串が峰        下山は南側の急斜面を下りる

 
   生子橋を渡る              内宮神社の厄落とし階段

  
内宮神社参道を横切る下部鉄道跡       山根収銅所(角野小学校上)

この下部鉄道は私たちが小・中学校時代に立川・端出場(はでば)方面からの友達が通学に利用していた電車道です。原隊長は
悪ガキ時代、線路に大きな釘を置いてここを通る電車に轢かせて手製のナイフを作っていたそうです。良い子の皆さんはこんなマネ
はしないようにね。(ウルセー=隊長)

内宮神社と角野小学校の間には私たちが「沈殿(ちんでん)」と呼んでいた「山根収銅所」がありここは明治38年に作られ、昭和3年
に拡張された施設で、鉄のスクラップに銅イオンを付着させて排水中の銅分を回収するしくみです。現在も水質管理の目的で稼動して
いるらしいです。

 
秋祭りで太鼓台がお参りする内宮神社境内    商売の神 お稲荷さん

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 第二部 犬でもわかる「別子銅山・銅山峰」解説  わんわん

さて、時間が余った私たちはエントツ山の麓にある「別子銅山記念館」を訪問し故郷新居浜をはぐくんだ別子銅山の歴史について
大好きなお勉強をしてきました。折角ですのでHP読者の為にわかりやすく解説致します。 発車オーライ(又かよ!)

講師 エントツ山登山隊「高嶺フラワーズ」
編集指導:シェルパ原
受講者: ビーグル系雑種「キク」独身メス 食い物にはサドいが頭は弱い
     
   
 受講者 キク 推定2歳   別子銅山記念館 (山根運動公園内)

別子銅山記念館は別子銅山の283年に渡る歴史を後世に残す為住友グループ
21社の出資によって別子鉱山閉山(昭和48年)の2年後に開館しました。開坑以来一貫して住友により経営されてきたのでその
住友の歴史・鉱山の歴史・地質・生活・技術が実に良く整理されて展示されています。

  わんわん  別子銅山 開坑の歴史

もともと、銅山峰北側には別子銅山以前に西条藩に属する「立川銅山」というのがあり1636年あたりから経営者がコロコロ変り
ながらも細々と採鉱されていました。
1690年(元禄3年)といいますから松尾芭蕉が俳句をヒネリながら日本各地を徘徊していた頃、徳島出身の鉱夫、長兵衛
(ちょうべえ)さんが銅山峰の南側山麓に銅の露頭を発見して、以前お世話になっていた住友家経営の備中吉岡銅山の支配人
「田向(たむけ)」さんに「いい話ありまっせ」と通報したことが住友家がこの銅山経営に乗り出すきっかけとなったようです。

この銅山峰嶺南が江戸幕府の直轄地(天領)であった為、住友家は現地調査をした後、幕府に開坑許可願を出しましたが、一旦は
上納金が少ないので棄却。その後幕府への上納金を上積みしたところ(出銅量の13パーセント)あっさり許可を得たそうです。
いつの時代にもよくある話ですね。
そこで1691年(元禄4年)晴れて別子銅山開坑となりました。
現地調査をした時、高品位鉱床の露頭発見に狂喜乱舞したのにちなんで、最初の坑口を「歓喜坑」(歓喜間符まぶ)と名付けられました。

  
 歓喜坑でミーボにエサを補給するシェルパ  冬の歓喜坑風景

初期の粗銅輸送ルートは領地の関係で、別子から南側の銅山川沿いを下り、肉淵より小箱越(ハネズル山と二つ岳の間)を抜け
土居の浦山中宿まで「仲持ち」と呼ばれる人夫(男45kg,女30kgを背負う)により運ばれていました。これに比べれば私たちの
登山リュックなんで空気みたいなものよねえ

 
  江戸時代 仲持ち衆の運送風景        江戸時代の採鉱風景

この浦山中宿から土居の天満(てんま)浦まで馬で運び、ここから大阪まで船を使うという運送効率の悪いものでした。

  わんわん  住友の「北北西に進路を取れ」作戦

さて、住友による銅の生産が順調に行くに従い頭を痛めた問題は35km(そのうち仲持ち人力運送路は23km)に及ぶ
天満までの輸送路でした。何とかして海岸線に近い北側の西条藩領地であった新居浜地区を通って新居浜浦まで16km
(仲持ち輸送路10km)への運送路を確保したいと考えていました。おりしも江戸幕府が長崎貿易で銀を使い過ぎた為、
1868年貿易決済を銅に切り替えたところでした。

この頃別子銅山の銅生産量は年間1,500トンに及び、国内銅生産の4分の1を占め、当時世界のチャンピオン銅山でありました。
江戸幕府の財政難、銀から銅に貿易決済を変えた事による銅山振興政策に乗っかり1702年(元禄15年)には住友家4代目
友芳
さんが幕府勘定方にうまいこと取り入って、銅山峰北嶺の銅山越ー角石原(かどいしはら)−馬の背番所ー東平(とうなる)
−落(おと)シー打除(うちよけ)−立川渡瀬(たつかわ・わたるせ)ー新居浜浦の利用を幕命(葵の紋所)により西条藩に認めて
もらいました。辣腕(らつわん!)

ついでに住友家に永代稼業許可などもちゃっかり貰っちゃった。今の時代なら「おぬしも悪よのう」と国会でピーナッツ事件に
なってるかも。
これだけでは収まらず、元禄16年(1903年)にはそれまで西条藩であった立川山、西・東角野、大永山、種子(たね)川山、
新須賀など新居浜浦への輸送路周辺を江戸幕府の領地として、代わりに幕領だった土居町と領地替えまでさせてしまったか
らこの住友家4代目友芳さんはスゴイ! 破竹の勢いだね

また1747年頃には、それまで鉱床を共有し境界紛争などでもめていた立川銅山が資金不足などで経営者が変遷の末、住友家
に譲渡を申し出2年後に併合されました。これで別子銅山の北北西へのルートの基礎は完成されたのです。

  わぉ〜〜ん  遥かなる旧別子 森に帰るまで

輸送ルートは北嶺を確保したものの、別子銅山の生産拠点は坑口の歓喜坑
歓東坑が銅山嶺の南斜面にあった為、依然嶺南側にありました。

旧別子とは
元禄4年(1691年)より銅山本部が嶺北の東平(とうなる)に移される大正5年(1916年)までの225年間別子銅山の採鉱、製錬や
労働者生活の中心となった高橋製錬所、東延(とうえん)、・目出度町(めったまち)などを含む地域です。主な銅山遺跡としては円通寺
小足谷出張所跡、小足谷醸造所跡、小足谷小学校・劇場跡、接待館跡、蘭塔婆、歓喜坑、牛車道などです。現在も銅山峰や西赤石への
日浦登山口からの旧別子登山道は人気があります。
江戸時代にはこの山中に3,500人あまりの人が住んでいたらしいです。

 
 明治20年目出度町           明治32年目出度町
 
明治20年 高橋製錬所付近       明治20年高橋溶鉱炉付近

明治時代の写真をみてもお分かりになるように、この旧別子一体は煙害や森林伐採などで火星の様な荒れ山になってしましました。
住友経営者には徳の高い人物を輩出しましたが廣瀬宰平さんの後を継いだ同じ近江出身の「伊庭貞(いば・ていごう)」さんが旧別子
時代の終わりにあたって、この荒れた山々を「元(はじめ)に返す」方針を打ち出し、その後の経営者によってこの精神が受け継がれて
明治41年頃から大正10年頃まで植林を根気良く続けました。この結果日浦登山道から見られるように現在では緑が見事に回復して
います。

 
別子山村側 日浦登山口                        ダイヤモンド水

 
            接待館跡                   劇場跡

 
    蘭塔婆                   銅山越の峰地蔵前
開坑3年目の大火事での132名の犠牲者を祀ったのがこの蘭塔婆です。

  
  牛車道                  銅山峰

このような長い歴史のある旧別子地区ですが、それまでの森林伐採や煙害による森林被害により、明治32年(1899年)に台風
による大水害、山崩れで567名の尊い人命が奪われ大部分の施設が壊滅状態となりました。この後、旧別子地区の役割は実質
上嶺北の東平(とうなる)に移っていったと言えるでしょう。

  わんわん 廣瀬さんの近代化経営策と牛車道・上部鉄道・下部鉄道

別子銅山主鉱床は銅山峰の南側、歓喜坑付近から厚さ平均2.5m、幅1,000mのコンニャク板みたいな形で北西から南東に向
かって下がり、露頭部標高1,300mから海面下1,000mまでに及ぶものでした。

  
       別子銅山 概要図 (マインとピア別子資料より)

この為、掘り進むにつれ段々鉱脈が深くなり坑道、排水溝などの建設、製錬や坑木につかう木材や薪、木炭の調達が次第に厳しく
なります。
おりしも幕末の政治・経済の乱れ、明治維新後の政府の交代などで別子銅山は危機を迎えますが、この時に救世主の様に登場した
のが近江出身の廣瀬宰平(ひろせ・さいへい)という人でした。 小さい頃篠場(しのば)の広瀬公園でよく遊びましたが、実はこの人
の邸宅だったんですねえ

この人、それまで江戸幕府に深く結びついてきた住友が明治維新により別子銅山の明治政府による没収の危機を救っただけでなく
、外国人技師の登用、立川精銅場の建設、小足谷疎水道開削、酒造所の設置、東延斜坑開削、学校・病院の設置、高橋溶鉱炉の
建設、第一通洞の貫通、惣開製錬所の建設、山根製錬所の建設などを進めました。
輸送路関係では

牛車道の建設:明治9年ー13年 銅山峰ー石ガ山丈ー立川中宿まで
  明治14年には嶺南の目出度町(めったまち)から新居浜中宿まで全線開通

           
                 明治の牛車道の様子

別子鉱山鉄道の敷設
上部鉄道:角石原(標高1,100m)から石ガ山丈(標高850m)まで5,532m
       明治26年から明治44年まで営業  時速12キロで運転
高架索道:石ガ山丈ー端出場(標高156m)まで 1,585m
下部鉄道:端出場ー石黒駅ー山根駅ー土橋駅ー星越駅ー惣開まで 10,461m 
     明治26年から昭和52年まで営業 (昭和25年電化)

私たちがお邪魔した別子銅山記念館の上にある、大山積神社境内には当時の蒸気機関車と電車が置かれています。

 
明治25年購入のドイツ・クラウス社  ED104号電気機関車 部品は日立
製蒸気機関車「別子1号」        製作所より、製作は別子鉱業所にて

 
 上部鉄道 明治時代の角石原駅  上部鉄道 石ガ山丈駅(明治)
 
御馴染みの上部鉄道機関車の写真  めずらしい下部鉄道を走る蒸気機関車
 角石原ー石ガ山丈間 (明治)      エントツ山の対岸付近 (明治)

  
  端出場操車場付近(明治)      立川めがね橋付近(明治)

現在の下部鉄道跡 (上部地区)

 
マイントピアには柵があり出入り出来ない  黒石駅跡

 
 下部鉄道トンネル跡           綺麗に整備されている下部鉄道跡地

現在上部鉄道跡は角石原駅があったところに「赤石の四季」著者で銅山峰の生き字引であられる伊藤玉男さんが管理する
「銅山峰ヒュッテ」があります。石ガ山丈までの上部鉄道跡は残っているものの、21あった鉄橋が老朽化して渡るのに危険な
箇所がありますが迂回をしたりして何とか通る事が可能です。

 
明治23年の角石原付近の風景     現在の角石原「銅山峰ヒュッテ」


   わんわん  東平(とうなる)端出場(はでば)時代に

別子銅山は銅山峰の南側を中心に発展してきましたが、明治32年の別子銅山大水害以来、鉱床の真下から東平まで
三通洞
開通(明治35年)させ、大正4年にはその600m下に第四通洞を開通させ鉱石は直接端出場まで出せる様になり、
採掘場所が下部に移るに従い採鉱本部も大正5年に銅山峰北側の東平に移転、最盛期には3,800人が住んでいました。
昭和5年には端出場に移転し昭和48年の閉山までここが最後の生産拠点となりました。

端出場地区は牛車道が開通した明治13年頃から開発が始まり、国領川上流の「小女郎川」の石を積み上げて平地を作り、
その後第四通洞の建設から生じる廃石で石垣を築き平地を造成しました。打除社宅31戸、鹿森社宅276戸ありこの地域
には1,200人くらい住んでいたそうです。現在この地区付近(打除)にはマイントピア別子というテーマパークがあります。


  
   昭和10年頃の東平            鹿森鉱山住宅 (昭和30年頃)

    
 明治30年代の端出場トンネルと鉄橋   昭和10年頃の端出場

 
マイントピア別子・東平、 銅山の里   東平登山口 (第三通洞横より左へ入る)


  わんわん  別子銅山の光と影

この別子銅山は昭和48年閉山まで延べ283年間で65万トンの銅を産出し、四国屈指の工業都市「新居浜」発展の礎(いしずえ)
となりました。大正末から昭和初期に経営者であった鷲尾勘解治(かげじ)さんは鉱山の鉱脈がいずれ枯渇する事を見越し、銅山
事業から派生した別事業を独立させる方針をいち早く打ち出し実践しました。そのおかげもあり、住友グループと言われる林業
(植林や坑木、木材の調達)、化学工業(肥料など)、重機械工業(構内設備)、電力業、土木建築、商社、銀行、船舶などの事業
が成長して行きました。昭和通り、山根グラウンドなども同時に建設されました。

他方、物事にも表と裏、光と影がありますように銅山の宿命と申しますか数々の社会問題、公害問題、労働争議などもその歴史上
避けられないものでした。

銅の製錬法は、開鉱以来銅鉱石を薪と共に焼窯に入れ何日もかけて蒸し焼きにし、それを珪石、木炭と共に炉に入れ溶かす。 
すると底に硫化銅(かわ)が溜まり、鉄分は珪酸鉄(からみ)となって外に流れる。
この硫化銅(かわ)を炉に入れ再び珪石と木炭で溶かすと硫黄分は亜硫酸ガスとなり大気中に放出され、硫化銅が粗銅(銅分80
−90%)
になります。

この製錬の為に付近の木々は伐採され、遠く笹ヶ峰近くまで薪を求めました。
又、この過程で発生する亜硫酸ガスは付近の農作物、植物に被害をもたらしました。山根製錬所が操業停止になったのもこの
亜硫酸ガスでした。伊庭貞剛さんはこの煙害問題を解決しようと明治38年銅の製錬所を四阪島に移転しましたが、返って東予
一円に被害が広がってしまいました。この補償問題を抱えながら操業を続け、やっと昭和になって亜硫酸ガスから硫酸を回収して
中和するプラントが出来ました。

そのほかにも江戸時代の別子大火事、明治32年の大水害などで多数の犠牲者を出し、構内湧水や事故など狭い地中で働人
たちの犠牲の上に新居浜の発展があったのです。写真で見る限り鉱夫さんの住宅事情も決して良いとは思えません。飯場制度
や労働条件の悪さに抗議して度々の争議、労使紛争も起こっています。

 
東平第三通洞より出てくる山の男達  端出場第四通洞から出てくる鉱夫さん

 
狭い銅山の坑道で働く人々          構内の保線作業風景


私達の住む新居浜や銅山峰をエントツ山から見るとき、このような別子銅山が落とした影についても思いを巡らされます。
エントツ山の下に並んでいた735戸に及ぶ「新田社宅」は今跡形も無く、別子銅山閉山時に両親の転職と共にちりじりに
なっしまった多くの友の事を思い巡らしながら私たち「高嶺フラワーズ」はちょっぴりおセンチに
なりながらエントツ山を歩きました。

今銅山峰は300年前の静けさを取り戻し、訪ねてくれる登山者を待っています。このような歴史やそこで暮した人々に思いを
はせながら是非私たちの山「エントツ山「銅山峰」「西赤石」「上兜山」串が峰」においで下さい。

           
投稿者:エントツ山登山隊 「高嶺フラワーズ」
編集者:シェルパ原
聞き手:    キク  理解度 23%  きゃい〜〜ん



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