平成22年 7月10日  喜三谷(きぞうだに)から上部鉄道を歩く


東平―喜三谷―新太平坑・太平間符―銅山峰ヒュッテ(角石原上部鉄道跡)上部鉄道跡ルート
一本松停車場跡―石ヶ山丈停車場跡ー一本松停車場跡(東平分岐)―東平



カシミールソフトを使用したGPSトラックログ図
この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)を使用したものである 

喜三谷から上部鉄道を歩こうと東平へ行くと、別子銅山にちなんだ催しがあると言うのでグランマー啓子さん
の文化的なHP内容を真似てそれを見学し、その後上部鉄道跡を歩く事にする。



8時30分頃東平に着き昔の索道・物資取り卸し場所であったインクラインの階段を下がると巨大な貯鉱庫跡
(頑丈な花崗岩造りで明治
38年頃に建設、第三通洞経由で運ばれてきた鉱石と、新太平坑と東平を結ぶ太東索道
から運ばれてきた鉱石を、一時的にここで貯蔵した。)前でいい歳のグループが揃いのネクタイ姿で
「木やり唄」を大合唱している。(どうも本番前の練習中だった)


 
  索道の荷揚げ場所だったインクライン跡                   お揃いの姿でリハーサル中

本番まで下の施設跡を見学する事に。今まで何度も東平に来ているが施設跡の見学をするのは初めてだった。
説明書きの表札でだけで今は杉林となった幻の施設を一巡りして時間を潰す。

ヨーロッパなどでは古い建物などが多く残されているが、やはり石の文化と木の文化の違いからだろうか。レンガ
やセメントの基礎以外は全て取り払われそこにまで余すことなく無粋な杉を植えているのが惜しい気がする。
別子銅山の先人偉人経ちは先見の明があった。但し、ここがまさか東洋のマチュピチュなど名付けて観光地にする
など想定外だったのだろう。



 
       辷(すべり)坂住宅付近                           遠登志(おとし)からの分岐

 
          娯楽場跡                            病院跡

元の貯鉱庫付近に帰ると男性合唱団の本番間近だった。
世話役の人から頂いた歌詞カードを見ると「大ノ(おおばく)の唄」とある。

東平の谷間に甲高い声が木霊し、背後の貯鉱庫跡の重厚な建物に霧が棚引いて実にいい雰囲気である。市の観光課
や市会議員(同級生の弟さん)、その他沢山のカメラマンの人たちが熱心に聞いていた。その中に煙突山の煙突
をサーチライトで照らしている「風変わりな電気屋」さんもおられた様だ。


ノ(はく)」とは銅鉱石の事で、別子鉱山では、前年採掘された鉱石の中から最も高品位の鉱石を選び化粧して
台に載せ、元日の朝、角野の大山積神社に担いで奉納し、銅山の安全と繁栄大祈願した。この立派な鉱石を大ノ
(おおばく)と呼んだ。その時に歌われたのが「大ノ(おおばく)の唄」という訳だ。
(大ノは式の後住友鉱山製錬部門に送られ、その年最初の鉱石として溶鉱炉に入れられたそうだ)



         貯鉱庫跡


 
   沢山のカメラマンが来ている                世話人の挨拶


   やっと本番の美声が東平の谷間に響く


別子銅山大ノの歌


 いまの旦那さんよ末代御座りゃ   ノにゃ歩くが増す人が増す
 
 飲めよ大黒歌えよ戎子  間で酌取れ福の神
 
 明けて目出度い始まる歳は  金場大ノ富士の山
 
 歳の初めに始まる月は  ノの買初(かいぞめ)蔵開き
 
 旦那さんの盃 山留めるじゅうへ   貰て戴く大ノの繪 (会え)


それが終わると今度は上の段で 別子銅山「せっとう節」が保存会の皆さんの素朴な踊りで始まった。

新居浜関係HPではピカ一のHP「東人の新居浜生活」さんによると「せっとう」とはフランス語の 「マセット」から来ているらしく 石を
砕く大槌の事であると解説されている。フランス鉱山技師のラロックさん達が「マセット」と呼んだ影響だろうか。

鹿児島の鹿籠金山では「せっと節」、足尾鉱山では「切刀(せっと)節」と呼ばれて同じように工夫がハンマーで石を割る踊りとなって
いる。

 
    ポンプで坑内の水を排水の様子                       選鉱作業と運搬



             ノミと槌でチンカン チンカンと拍子をつける

 
      鉱石を集めて運ぶ作業                          色んな体型の人がいる


別子銅山「せっとう節」

  1. アー別子銅山金吹く音が  聞こえますぞえ立川へ
 
    チンカン好きなら坑夫の子になれ
    アーオカタイ オカタイ
       (囃言葉は以下同じ)
 
  
2. アー行こうか戻ろうか銅山山へ     ここは思案の眼鏡橋
 
  3. アー黄金掘りつつ落とした涙      滲みて今宵は石が泣く
 
  4. アー朝もとうからカンテラさげて     坑内行くのも意気なもの
 
  5. アー固いようでも女はやおい     やおいようでも石や固い
 
  6. アーおかか今月は堀場は鉢じゃ     湯巻買うのは来月じゃ
 
  7. アー堅坑二千尺嫁ごに見せりゃ     可愛い男の度胸だめし
 
  8. アー目出度町には箒はいらぬ     おそめ お袖の袖ではく
 
  9. ア−余慶も弟地も銅山山も     おけさ踊りの歌ばかり
 
  10. アー米の飯喰うて勘場味噌そえて      これで下財がやめられよか
 
  11. アーきのう今日来たうどがまさいは     ごんぞわらじを横ばきに
 
  12. アーあなた想いにこれ程やせた     二コ廻しが三コ廻る
 
  13. アー石が固いのかお手々のからか     なんぼたいても下がりゃせぬ
 
  14. アーあなた百までわしゃ九十九まで     共に白髪のはえるまで


喜三谷(きぞうだに)〜角石原(銅山峰ヒュッテ)ルート

生まれて初めて見る別子銅山の無形文化財に時間を忘れて、喜三谷への入り口に戻ったのは10時45分になっていた。 谷の入り口には
通行止めの看板らしき物があった様な気がするが、ロープを乗り越えて進むと藪っぽい左岸に石段が上に伸びている。10分位歩くと薄暗い
杉林の中に何段かの社宅跡があった。

今は既に人の気配はしないが、レンガ作りの何かの土台が残されている。ここにもびっしりと杉が植えられている。そこから途中まで東平へ
の取水管を辿って、途中から右上へと道らしき踏み跡を辿る。 この道は少し沢から遠ざかり、古い丸太階段などがあるので昔使われていた
太平坑への古道かも知れない。

11時30分上側の沢に出ると少し崩壊しており行き詰った。沢部を少し遡るが行けそうにない。ひょっとするとどこかで沢の迂回路を見逃した
かも知れないと思い、もう一度喜三谷社宅付近まで帰り、取水口方面へ行って見る事に。 今度は忠実に取水管を辿って行くと1200時取水口
の沢部に着く。

 
 東平登山口・臨時駐車場広場の奥から喜三谷入り口となる        小さな沢に沿って右手に道がある 

   
           喜三谷部落跡                              昔はこんな風に家が建っていた




   遊園地、娯楽部、浴場などがあった事が地図に記されている


 
          これは人が結構歩いているぞ                 崩壊した沢部でルートが切れた

  
もう一度喜三谷部落跡に帰って導水路を辿って道を探す         取水口の谷まで来るがそれ以上道はない

綺麗な沢水を取り込んでおり今でも東平の水はここを水源地にしているそうだ。 右岸への踏み跡を見るが崖となっており道はありそうにない。 
すると後方で人の気配がしたのでそちらに行くと東平で働いているMさんともう一人この辺りで猟師をしていた方がいた。 
「太鼓橋への道を探している」と言うとそこまで案内してくれると言う。 ラッキー  結局もとの道で良かったみたいで上部の崩壊沢まで引き返す。

藪を越えてよく見るとそこから左岸(向かって右側)に確かに踏み跡が続いている。更に進むと広いガレ場に出た。ここも又藪が酷かったが
左手の沢へ進むとやはり沢沿いに踏み跡があった。 12時36分「太鼓橋」に着く。 草が生い茂り上の沢から流木や土砂が流れてきて埋め
尽くしている。 ここでお礼を言ってお二人と別れる。 


 
           東平取水口                                上部の太鼓橋

 
    太鼓橋の下には一杯流木が詰まっていた              蜘蛛の巣だらけの急な林道をジグザグに上がる


正面左手の植林帯へと踏み跡が続いているが標識などはない。直進する踏み跡があるのできっとそれは二の森・三ノ森へと向う道だろう。
急な林道を進むと明るい東斜面へ飛び出し13時15分標識のある分岐に着いた。進行方向が銅山峰ヒュッテ、今来た道が東平登山口と
なっている。 

と言う事は今歩いて来た喜三谷からの頼りない道は東平登山道とみなされているって事かい。この辺りからヒカゲツツジが生い茂る藪となり、
アカモノの実が沢山斜面に見られ、以前訪れた「新太平坑」が近い事を暗示する。 

13時25分薮の中にある「新太平坑跡」に着く。 東平側には高い石垣が残っており見通しが良く、沢部が下側に続いている。ここからは
知っている道なので安心だ。コーナーを曲がると右手に「太平間符」がある。ここも薮の中なので見落とし易い
ちなみに「間符」(まぶ)とは坑道の事らしい。 


                      山ツツジが兜岩・西赤石をバックに咲いていた

 
             喜三谷ルート分岐点標識                   アカモノが苔むした岩場にびっしり生えている


         新太平坑跡  ここはかなりデカい   坑口は石で閉鎖されている


             太平間符   登山口から良く見えないので見落とし易い

 
               まあ 花の話題が無いHPだから少しは見かけた花を貼っておこうっと

13時50分 銅山峰ヒュッテに着くと広場に大きなテントが張られて学生が一人いる。聞くと高知大学ワンゲル部だと言う。他の部員はテントの
中で寝てるという。こんな時間に寝るなんて一体どういう山登りなんだろう? でも四国の山で会う若者といえば先ず我が高知大学のワンゲル
部員である。頑張ってや〜〜


しばらく若者と話した後、さて、ここから上部鉄道跡を巡る歩きとなる。 今まで上部鉄道跡は西赤石への登山道の一部として捉えてきたので
部分的には既に歩いているのだが、全行程を一気に歩くのは初めてである。  時間大丈夫やろか?


 
    13時50分銅山峰ヒュッテに着く                 高知大学ワンゲル部のテントと部員


上部鉄道跡を歩く  (角石原 14時10分〜石ヶ山丈 16時20分 全行程歩行時間 約2時間10分)

上部鉄道とは

明治13年広瀬宰平により牛車道が銅山峰から石ヶ山丈を経て立川(中宿)まで完成し、それまでの仲持ち人力運搬から牛による運搬に取って
代わった。さらに明治19年には第一通洞が南嶺から角石原に抜け、それまで銅山峰を越していた輸送がこのトンネルを利用出来る様になった。別子銅山では更なる輸送革命を目指し角石原から石ヶ山丈まで「馬車鉄道」を敷設する計画を進めていたのである。

その時欧米視察に出かけた広瀬宰平により待ったがかかり、急遽「蒸気機関車ちゅう手があるで」とここに日本初の山岳鉄道に計画が変更され
たのである。もうこの時代はめまぐるしい近代化で山の人たちはさぞ混乱した事だろう。

この「上部鉄道」は明治25年着工から翌26年までホンマかいなと言う驚くべき速さで角石原(about 1,100m)と石ヶ山丈( about 835m)間 実に
5,532m を完成させたのである。

興味はあちこち壊れていた橋は現在どうなっているのかという事と一体全部で幾らの橋が架けられているのかという事だった。


パート1)

角石原 14時10分 〜 兜岩登山口 14時53分、 〜 一本松停車場跡 15時10分 = 約 1時間程です

最初に鉄製の綺麗な橋を渡り、14時15分 2番目の小橋を渡る。するとすぐさま鉄板のしっかりした橋が現れる。更に進むと木枠で固められた
鉄板橋が2個続く。14時30分両脇がゴム管で補強された鉄板の橋が2つ並んで続く。(これで7個)


 
       2番目の橋                                   3番目やで
 
 
      4番目の橋は横に補修された橋が並ぶ                    5番目の最近補強

 
        6番目 これも最近補強されている                  7番目 やはり補強された橋

14時30分 古墳の様な「千人塚」が現れる。どうもここはこの辺りでの無縁仏を祀っている場所らしい。住人は登録されている筈だし、身元が
わからない旅人みたいな人が流れて来ていたのだろうか。

千人塚を過ぎると直ぐに手摺の付いた長い鉄板が敷かれた橋があり、その後14時42分 三連橋で有名な「唐谷」を通過する。
橋げたには頼りない丸太が一応渡されているが、こんなの渡れるのは中国雑技団かボリショイサーカスの綱渡り芸人位だ。
横の迂回路を素直に渡る。そこから5分位で吊橋スタイルの長い橋を渡る。(これで12個目の橋)

 
  別子山中で亡くなった無縁仏を祀っている「千人塚」        明治の中期(20年頃)松山監獄の囚人が運搬道工事などに
                                            駆り出されて亡くなった人を祀っている慰霊碑が建っている


 
        8番目  (つい最近まで木製だったが・・・)                     石組みが素晴らしいなあ


        ここは有名な「唐谷」の三連橋だから    9番、10番、11番目の橋という勘定でいいのかしら?

 
         唐谷 3連橋                            あんりゃ 12番目の橋は吊橋スタイルに補強されている


14時53分お馴染みの「兜岩登山道分岐」に付く。今年一本松から兜岩へ向った人がこの分岐を上がらず遭難騒ぎがあったらしく、
しっかりした標識が取り付けられ幟(のぼり)もある。

ここを過ぎて直ぐに短いアルミ板の橋があり、14時56分裏谷に着くとしっかりと補強されたアルミと手摺のある橋がかかっている。 以前は
頼りない痩せた木が渡されたいたんだが・・・

5分後には唐谷と同じく良く写真で見られる「七釜谷」に着く。通行不可でロープが張られているがここは下から眺める方が美しい。
毎回2〜3枚同じような写真を撮ってしまう場所だ。

前方のルートが右に湾曲し松が沢山生えている「一本松停車場跡」に15時11分到着。ここから左手へ下がると東平はすぐ近くだ。ここから
石ヶ山丈駅跡まで行って又引き返すかと思ったらゾッとするがこれが今日の計画だから仕方がない。登山道分岐にもなる場所だから火の用心
の赤い幟など幾つもの標識があり間違う人もいないだろう。

 
           兜岩・西赤石登山道入り口                    13番目の橋はセンターに鉄板が置かれている

 
         14番目の橋は「裏谷」にかかっている                      七釜谷の15番目の橋



                      七釜谷に架かる橋は渡れない  (15番目)


                          一本松停車場跡  標識や幟が増えている

パート2)

一本松停車場跡 15時10分〜石ヶ山丈 16時20分 = 約 1時間10分程です)

15時15分 多少朽ち気味ではあるが渡れる橋を通過、更に15時21分保線小屋跡、その付近にある第2岩井谷に架かる橋は谷が
深いものの最近新しく敷設されたみたいで手摺もあり長い割りにはしっかりしていた。

第1岩井谷の橋は古くて使えない。山側から谷に降りて迂回するのだが返ってこの方が趣があるというものだ。この後もう一つ谷へ
迂回する橋がありこれで18個目の橋となる

15時35分 火の用心や動力会社の幟(のぼり)が立てられた開けた場所につく。 これは先ほど太鼓橋へ案内してくれたMさんが
東平より上部鉄道跡の場所を説明する為に目印として設置したそうだ。  15時40分巨大な紫石(紫岩)を通過して直ぐに、木が細って
渡れない橋があり、山手を迂回する。

15時48分短いが真新しい木製の橋がかかっている。これもつい最近整備されたのだろう。 15時50分前方に3本の幟(のぼり)が
立っている。これも東平から上部鉄道が確認出来る目印の為に見通しの良い場所に立てられたのだ。


 
   16番目の橋  多少木を増やして補強されているのだが・・・                    保線小屋

 
     第2岩井谷に架かる 17番目の橋                   最近補修されているので快適  ここは景色が良い

 
    第1岩井谷の 18番目の橋                       ここはロープで通行止めになっている       


           19番目 (ロープで通行止め) 下から見る方が美しい

 
        20番目の橋も渡れない                          東平から見えるように幟(のぼり)が立てられている

 
         紫石  (横に紫色の縞模様がある)                  21番目の橋は痩せた木が置かれて危なっかしい


                21番目の橋を迂回する

 
    大岩が真ん中にデンと構える                                  22番目の橋は綺麗過ぎる

               
                 下側の石積みがしっかり残っているわ

 
 ここも崩壊地で東平から見える様に幟が立っている               有名な切り通しが現れた

1600時上部鉄道のメインイベント「切り通し」に到着。 ここを通るドイツ・クラウス社製四輪連結タンク蒸気機関車の写真を2パターン位
で見た人も多いだろう。煙を吐き力強く断崖絶壁を走る姿は実に絵になる風景ではあるが、今は木々が生い茂って写真の面影はない。
裏側が気になっていたので右手から岩に回り込む。岩の天辺まで行こうとするがへばり付いている幼木が剥がれそうなので途中で断念


 

   明治時代の切り通し    近藤廣仲収蔵写真集より (右上に落石防止の屋根を持つ牛車道が見える)

 
         両側に絶壁が見える                           切り通しの岩の上


切り通しから下りて又石ヶ山丈を目指す。
16時18分最後の谷「地獄谷」に到着。 ここは橋脚だけで木が渡されておらず右手に迂回して又這い上がる場所にアルミの梯子と補強丸太
が斜めについている。

16時23分やっと薄暗い上部鉄道始発駅「石ヶ山丈停車場跡」に到着。 角石原から丁度2時間10分位の歩行時間であった。
くだんの蒸気機関車は何分で走ったのだろう? 
石ヶ山丈まで蒸気機関車に引かれた4〜5両の貨車で運ばれた鉱石は、ここから索道で端出場まで下ろされ、さらに下部鉄道により惣開
(そうびらき)精錬所へ輸送されたのである。

石ヶ山丈・魔戸の滝分岐まで進み引き返す。時間があれば旧・端出場発電所の導水路を探して東平まで帰ることも考えていたが時間的に
ちょっと無理である。

 
    23番目は地獄谷 橋はかかっていない                地獄谷の橋を迂回して渡る

  
 地獄谷の橋は無いが石組みやレンガがしっかり残っている               石ヶ山丈に着いた

     
       石ヶ山丈登山道分岐                    石ヶ山丈停車場跡を引き返す

元来た道を引き返し17時38分一本松停車場跡を通過し1800時丁度に第三広場へ帰り着く

 
一本松停車場跡の東平登山道分岐まで帰る                       東平変電所跡に帰る

 
              第三広場へ帰り着く                    出発点の喜三谷入り口に帰る

今回、角石原から石ヶ山丈まで上部鉄道跡を歩いた目的は登山道としてこのルートの状態を知りたかったからである。今まで部分的に
この場所を歩いて来たが、「随分荒れているなあ」という印象だった。平成22年7月現在、上部鉄道跡ルートは随分整備され安全な場所
になっていた。

整備をされた方(企業? 団体?)に感謝すると共に、別子銅山が誇る山岳鉄道ロマンの道を是非皆さんに歩いて欲しいと思います。


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